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 それは、霊峰での戦いの直後のこと――。

 転移の魔法でその身を本拠である砦まで移動させた魔将軍ユウは、彼女の盟主であるその存在の前に姿を現せていた。

 天窓から差し込むわずかな月明かりのみで、あとは深い闇が支配するそこには、豪奢な椅子と小さなサイドテーブルの他にはなにもない。不必要に広く、到底闇の向こうは見渡せなかった。

「剣の奪取に失敗しました」

 状況の説明はなにもなく、彼女は結果のみを伝えた。与えられていた指令に対しての報告を、脚色したり偽ったりすることに意味など全くないのだから、それがさも当然であるかのように淡々と述べていた。叱責の罵声の一つも飛ぶかとおもわれたが、そのような低次元のやりとりをするようなつもりのさらさらない仮面の参謀長は、

「ふむ」

 と一言頷いただけである。ユウはさらに問いかけを続ける。

「いかがいたしますか?」

 気怠げに肘掛けに頬杖をつき、銀髪の男は答えた。

「しばらく泳がせる」

 燐光を放つ銀仮面からのぞく口元には、普段の人を蔑むような歪んだ笑みではなく、少々不機嫌そうな表情が浮かんでいる。

「過去のものと比べれば、その力は微弱。今奪ったとしても私の望みを叶えるものではない」

 まるでその場に『眼』を飛ばせて一部始終を見ていたかのように、淡々と参謀長は語った。

 消し去るつもりで放った暗黒魔法を見事に封滅されたのにもかかわらず、あれで微弱だという――。
 刹那、ユウの脳裏にそんな感慨が浮かんだが、少しも表情は変えず彼女は頭を垂れた。

「……御意のままに」

 参謀長はしばしの沈黙の後、再び口を開く。

「ティレンサイド攻略にアキラを向かわせ、『剣』とうまく接触させろ。なにか変化があるかもしれん。ただし悟られるなよ、アレは気性が激しいからな」
「……」

 無言の返事の後、闇に融けるようにユウの身体は消えた。一人残された参謀長は、誰にともなくつぶやく。

「まったく、二重の封印とは味な真似を。抜け目ないあの女のやりそうな事だ――」

 直後、二刀流の女剣士アキラ・イル・トリティエに、北大陸ティレンサイド地域攻略の命が下された。長距離の大規模移転魔法の不安定さからという理由で、送り込まれたのは予想されるティレンサイド軍の五分の一程度の兵力であり、いかな常勝無敗の魔将軍であったとして、容易に勝つことのできぬ戦となることは目に見えていたのだが――。


センチメンタルファンタジー
第十八話「策謀」



 正午前だというのに、相変わらず街には活気がない。
 通りを行く者の数もまばらで、いつもならば大衆食堂としてにぎわい始める昼の時間であっても、いまだ三名の他に客はいなかった。

 それもそのはず、今朝づけで議会名において非常事態宣言が出され、安穏と暮らしていた民衆にそれまでの噂話程度のことから、一気に話は飛躍し「戦」であるという実情が突きつけられた。正規の軍では足りず、同時に民間人の徴用も始まっているはずだ。昨日よりもさらに殺伐とした厳戒態勢下の街に、出歩く者が少なくなるのは当然のことだろう。

 戦場はティレンサイドからそう離れていない、ティレン川の河口にほど近いところだと言う。有史以前の太古より、そこに居を構える砦に陣を引いているらしい。

 とはいえ、庶民たちに与えられた情報はまだ少なく、ただ漠然とした不安感だけが先行し、街全体を包み込んでいる状態でもある。混沌とした戸惑いの空気が街に渦巻いていた。


「沈黙の谷の賢者?」

 疑問に思ったことを素直にヒロは口にした。辺境育ちの彼には初耳のことである。無理もない、その谷に住む人々自身が自らの存在を秘匿し、外界との接点を絶っているのだ。それもここ何十年のことではなく、もう何百年と昔から。

「どこからともなく現れた、その子の生まれ知る者おらず」

 その表情を見たアスカは紡ぐように語り出す。ティレンサイドに生まれた者ならば、それは小さな頃に昔話として聞かされるのだが、霊峰を中心におくジル山岳地帯を隔てたノースグリーヴまでは伝わっていないはずだ。隣ではホノカも聞いたことがないと瞳で物語っている。

「私の知っている話はこう始まるの。一人の少年が、ある村にやってくるところから」

 ヒロ、もホノカもひとつ頷き、ただ聞き入ることにした。


 山間の痩せた大地の小さな村、その村にふらりと現れた一人の少年。

 青い瞳に白金色の髪、褐色の肌をもった彼は、不思議な力を持ち、大人よりもずっと速く駆け、屋根よりも高く跳び、木の上から落ちても平気で、大きな岩をも持ち上げた。

 彼は人間の言葉を知らず、かわりに動物の言葉を知っていた。森で獣に育てられた、というように伝えられているという。明らかにティレンサイドの人間ではない容姿に、なかなか村人は心を許さなかった。

 少年は井戸を掘り当てたり、掘削場での事故から人を助けたり、不治の病に侵された者を治したりした。何年も何年もかけて徐々に言葉を覚え、片言だが村人との交流ができるようになり、次第に打ち解け慕われ尊敬されるようになった。

 だがあるとき、大地震を予言しそれが的中し、疫病がはやることを進言しそれを防げず、疲弊した村を再三襲いかかった洪水を警鐘したころから、周りの様子が変わった。

 曰く、すべての元凶はその少年だ。そういった風評が知らず流された。

 片言でしかしゃべることのできない少年は、弁明の言葉を持ち合わせてはいなかった。ただ、真実を語るのみだと、答えるしかなかった。

 人々の不信は加速する。

 そう、その少年が現れてから数年経過しているのに、彼の姿はらなんら変化がなかったのだ。同年代の子供たちは、少年よりも頭一つ二つも大きく成長しているというのに。その上、彼は異常なほどに怪我の治りが早かった。投げられた礫が額を傷つけようとも即座に治った。

 やがて弾劾は激しくなり、魔物と罵られ、彼は村から消え失せた。

 どこからともなく現れて、いずこともなく消えていく。町から町へ、村から村へ。

 風の声を聞き、未来を見。
 何年たっても子供のままで、ふらりと現れいつしか帰る。
 いずこからきて、いずこへとゆくのか。

 最後には唄になっていた。かすかにつけられた抑揚と、語尾ののび、情景が瞼の裏に浮かぶような感覚を味わう。

「その彼が沈黙の谷の『一の賢者』と呼ばれているのよ」

 村を追われた少年は各地を転々としながら、同じような人外の力を有する者を集めてまわったという。いや、正確に言えば今も、だ。

 魔法とは違う力、歴史をも変えてしまうような力、大きすぎる力を持って生まれたために迫害される者たちを集め、一の賢者は集落を作り外界から隔絶させた。

「それが、沈黙の谷……」
「自らの力を恐れ、外との交流を絶った存在たち。大陸地図のほんの点でしかない隠れ里。太古に水源が枯渇した荒野の、大峡谷にある幻影の村……」

 ホノカのつぶやきに、アスカは一つ頷いて言葉を続ける。

「おとぎ話の中では語られていないけれど、ティレンサイドの人々は皆畏れているのよ。迫害してきた彼らに、いつの日か手痛いしっぺ返しを受けるんじゃないかってね」

 少年にそんな気がまったくなかったとしても、人は恐れずにはいられなかった。人外の力を有しているとは、力を有していないものからの尊敬と嫉妬、羨望と憎しみの入り混じった思いを常に受けつづけねばならない、そういうことだ。

「なんだか悲しい話だ。救いがないというか」
「人はなぜ、人と争いあわなければならないのでしょうか……」

 ホノカの瞳にもヒロの瞳も、どこか陰鬱な感情に乱され、いつもの輝きを失っていた。
無法のならず者といえど、それを斬って捨ててここまでたどり着いた二人にはその気持ちがよくわかる。剥き出しにされる悪意、限りなく純粋な殺意、それを浴びせられつづけた彼は、どんな気持ちでそのような気持ちで荒野に隠れ里を築いたというのか。

「そしてその谷の者の一人が」

 アスカの話は続く。

「魔軍に連れ去られ、砦の中に捕らえられているのよ」

――魔軍と呼ばれるもの、それが此度の敵。

 どこから仕入れてきたのか、おそらく重要機密であるであろうその言葉を、ヒロとホノカはもう一度心の中で反芻し、互いに横目で視線を合わせた。とても複雑で、とても一言では言い表せない思いが交錯する。からからに渇いていく喉を冷めた紅茶で潤すことも忘れ、ホノカは震えだそうとする膝を必死に押さえた。

「アスカ、ちょっといいか」

 それまでにない真剣な眼差しで青年は尋ねる。ある程度の予測は、ある程度の心構えはしていたつもりだがそれでも否応なしに鼓動が早くなる。

「え、ええ、なんでも聞いて」

 その気迫に気圧されるように、アスカはわずかに身を引きながら答えた。心音が張り詰めた空気を伝わってくるような感覚にさらされる。

「その敵軍の中枢に、赤い髪の暗黒魔道士がいるという話は聞いていないか?」

 数呼吸の間を置き、探るように言葉尻を気にしながら慎重にヒロは訊いた。霊峰での戦闘はまだほんの数日前のことであり、記憶にも新しい。強力な魔の力で歪空間に飲み込まれかけたことや、それを一瞬にして対消滅させた剣の力など、鮮烈な出来事として胸に刻まれている。その圧倒的な魔力は簡単に忘れられるものではなかった。

「え、赤い髪の魔道士?」

 復唱するアスカの言葉に、小さくホノカの肩も反応した。ただ見ているだけでまったく動くことのできなかった記憶、あの魔将軍の行使した暗黒魔法の力を目の当たりにした少女もまた、知らず知らずのうちに恐怖を植え付けられている。ただ、それは彼女にとってヒロとタエコを失うということに直結していたからなのかもしれないが。

 なにか、あったのだろう――。

 そう肌で感じ取れる空気に、アスカの好奇心が爆発的に膨れ上がる。

 そうだ、なにかあったのだ。

 天空船の甲板で始めて出会ったあの時から、そんなことはわかっていた。だから、あくまでも自分は詳しく聴かないし深入りするような態度はとらないようにしようと心がけてきたつもりだった。

 だがどうしてであろうか、無意識のうちに力になりたいと思ってしまう。そもそも、はじめからある種の懐かしさを感じてさえいた。面白ければそれでいい、という主義。アスカは、どうせいつもの悪い癖だと、乗りかかった船だから最後まで付き合うと、ほんのその程度にしか考えていなかったはずなのに。

「どんなことでもいい、そういう噂を聞かなかったか?」

 それだけの確証をもつに十分な想いが感じられた。ただ、なんと表現するべきか、青年の真摯なまなざしは激痛に耐えているような、全てを背負い込むようなそんなイメージを抱かせ、それがアスカになんとかしてあげたいという気持ちを起こさせる。

「あ、そういえば」

 不意に、昨晩仕入れた情報の中に、その『魔道士』に直接関することではないかもしれないが、手がかりになるようなことがあったことを思い出した。

「あったよ、そんな魔道士の話」

 ガタンと椅子が倒れ、静かだった食堂に大きな音が響いた。あまりにも勢いよくヒロが立ち上がったためだ。何事かとアスカが思うより前に、ヒロはそのアスカの肩をつかむ。

「アスカ! 頼む、その話詳しく聞かせてくれ!」
「ちょ、ちょっとまって、いったいどうしたの? わ、私何か変なこと言った?」
「ヒロ、落ち着いて!」

 蒼白な顔でホノカが止めにはいったが、その手を払いのけるようにして青年は続ける。

「何でもいい、どんな些細なことでもいいから!」

 貫くような厳しいまなざしは、先ほどまでとはまるで別な人物だ。荒々しく切り立った霊峰の、峻険な山肌を思い起こさせる鋭い視線。

「は、話すわよぅ、話してあげるから、そんなに興奮しないで、ね?」

 なだめるように、アスカは引きつった笑いを浮かべながら言った。彼女にはヒロがどうしてこんなにも激情に駆られているのか思いもよらない。いや、あまりにも突然の変化についていけてないというのが本当のところか。

 口をはさませる間をおかず、アスカは答えた。

「沈黙の谷の賢者が砦に捕らえられるって、自慢げに話してた男が――」

 手を撥ね退けられ、少々よろめいて体勢を崩していたホノカもその視線をアスカに走らせる。固唾を飲んで見守るヒロの額には一筋の汗が流れた。

「変な黒マントの占い師から教えられたって言ってたのよ。しかも、その占い師は燃えるような赤い髪だったって」

 そう、彼女は言った。黒と赤。それはあの魔将軍を象徴する色。

 刹那、二人の脳裏にあのときの光景が甦り、背筋にあのときの衝撃が駆け抜ける。

「ホノカ、どう思う?」

 ゆっくりとヒロは振り返り、隣国の王位継承権さえもつ少女の名を呼ぶ。

「どうかな……、それだけじゃまだわからないけど……。第一、どうしてそんな情報をその男の人に伝えたのかはっきりしていないし」

 青年と視線を合わせないよう、さっと瞳を落としてホノカは答えた。どんな表情で顔を合わせればいいのかよくわからなかったからだ。

「だよな……。それだけじゃ、まだ断定しきれないよな」

 沈黙が重くのしかかる。そんな二人の様子に、情報の提供者であるアスカも判断にあぐねているようだ。

「百聞は一見にしかずっていう言葉もあることだし、じゃぁ行ってみよっか」

 ぽん、と手を一つ叩き、アスカはあっけらかんとそう言った。表情がなぜかにやけている。

「え、どこに?」
「いきなりその砦に乗り込むというのですか?」

 それぞれの反応にさらににんまりと笑みを浮かべ、

「ちがうわ。ティレンサイド中央評議会、よ」

 そう答える。ヒロもホノカもますますわけがわからない。

 突然の展開に疑問符を顔いっぱいに浮かべる二人の表情を見て、アスカは不適に笑みを浮かべた――。



 ティレンサイド評議会は合議制の政治中枢である。他国では国王にあたる最高権力をもつ存在が評議会議長で、副議長、議長補佐官と続いていく。議会内にはいくつもの派閥があり、それぞれが覇権争いを水面下で繰り広げている。共和制のいいとこどりというだけでは決してない。

 アスカに引き連れられて、街の中央にそびえる評議会集合堂に来たヒロはその大きさに圧倒されていた。単純な大きさで言えば、ホノカの生家であるノースグリーヴ城東の離宮にわずかに及ばないくらいなのだが、小高い丘の上にあり街全体を見渡せるその場所は、名実ともにティレンサイドの中央にあり、さながら街ひとつがこの場所に集約されているのだと言わんばかりであった。

 先般の戦時戒厳令のため、普段なら議会を退役した老人が出入り記録をしているはずの評議会正門も、武装した兵士が詰めていて仔細にあたりの様子を見回している。といっても、普段めったに着用することのない鎧を身に着けている彼らの様子のほうが、よほどこの場所から浮いて見えた。

「アスカ、いったい評議会に何があるって言うんだ?」

 ヒロはアスカに尋ねる。道すがらなんども口にしようとしてきた言葉だが、ここにきてようやく訊く決心がついた。少女の考えがいまいちわからない不安感が、どうしても彼の中にある。ホノカはなんとなく予想できているのか、先ほどから黙ったままだ。

「行けばわかるわ」

 アスカの答えは、この言葉だけだった。

「ほら番兵も立っているし、こんなときに簡単に入れるところじゃないだろう?」

 ふぅ、と一つため息を尽き、ヒロは実情を伝える。

「まー、そっこらへんはこのアスカちゃんに任せておきなさいってば。ヒロたちは」

 だが彼女はにっこりと笑うと、ここで待ってて、と二人を置いて門番の兵士の元へと一人で行ってしまった。

「本当に大丈夫なのかな」
「今はアスカさんを信じるしかないよ……」

 そう口にするホノカの言葉にもやはり不安は隠せなかった。


「はぁい、お兄さん。ちょぉっとお願いがあるんだけどぉ」

 厳つい顔で門の横に立つ兵士に、アスカはニコニコと営業用スマイルを振りまきながら歩み寄る。白い手足が剥き出しになったなんとも丈の短い服装に、一瞬目を奪われながらも職務を全うしようと、

「なんだおまえ達は!」

 手にしている槍を向けながら、年若い兵士は声を荒げた。

「まぁまぁまぁ、そんなに怒んないの。ある人に会いたいんだけどぉ、ここを通してくれないかなぁ」

 男ならば誰しも言葉をなくすような甘い微笑みと、加えて腰を折り曲げた姿勢から上目遣いで見上げられたため少しだけ覗き見える胸元が、まだヒロたちと数歳も違わない青年兵の思考を麻痺させる。

「どこ見てるの? エッチ」

 そのまま数呼吸置いて、アスカはジト目で鋭い突っ込みを返した。姿勢を戻して胸元を直す。一つ一つの動作に視線がくぎ付けになっている自分に気づき、はっと我に返る。

「ふ、不審な奴め! 評議会に何用だ!」

 兵士は少女の的確な言葉に、頬を真っ赤にしながらそれでもかろうじて自分の優位性を保とうと強気な返答をする。

「昨晩の約束どおり『娘』が来たとハウザー殿に伝えて」

 と、先ほどまでとはがらりと変わったまじめな顔で、実に堂々とした態度で門兵にそう言った。あまりの変わりように、兵士も面食らう。

「な、なんだ? も、もう一度用向きを伝えよ」
「聞いていなかったの? だらしないわね、お父様に言いつけるわよ」

 眉根に不機嫌そうな皺を刻み、アスカは強い語調で再度言った。ビクン、と青年兵の背筋が伸ばされる。半信半疑、といった表情ながら、

「そ、そこで待っていろ、すぐに戻る」

 冷や汗を浮かべそう呟いて奥へと消えた。判断をすることは彼にはできなかった。

「あんまり待たせないでよね、私、気が短いほうだから」

 怒りを多分に含んだ調子で、早足で去っていく青年兵の後ろ姿に言葉を投げかけながらも、アスカの頬はにんまりと笑みを作っている。いたずらが成功した少年のような、そんな表情だ。

「この隙に、入ろうっていうのか?」
「いくらなんでも、それはまずくないでしょうか?」

 いつの間にかすぐ後ろに立っていたヒロとホノカの両名が心配そうに見つめている。

「ううん、そんな必要ないわよ。さっきの彼、すぐに飛んで戻ってくるはずだから」

「じゃ、アスカの父親なのかい、そのハウザーって人は」
「じょーだん! あんな短足デブハゲエロオヤジの娘だったら、とっくに首つってるわよ。どんなに母親が美人だって、私みたいな超絶可愛い〜い娘は生まれないって」

 あまりの言い草に、ヒロは苦笑いを浮かべ、ホノカはかすかに眉を歪める。

「ではいったい……」
「あら、もう帰ってきた。……その話はあとからにしましょ」

 さっと先ほどの硬い表情に戻し、アスカは兵士がガチャガチャと鎧を揺らしながら駆け寄ってくるのを待った。よほど焦っていたのか、はげしく息を切らせている。

「さ、先ほどは失礼をいたしました。お父上のハウザー副評議長が執務室でお待ちですのでお入りください! 知らぬこととはいえ、大変なご無礼をいたし、申し訳ありませんでした!」

 ほらね、といわんばかりの顔でアスカは小さく笑みを浮かべた。

「いいわいいわ、それも私の魅力のなせる技かしら。……よく見ればあなたなかなかいい男だし、こんな所じゃなくてもっと重要なところを受け持てるように、進言しといてあげるわね」
「きょ、恐縮です」

 赤くなったり青くなったり忙しい人だなと思いながらも、ヒロはアスカに従い後ろに付いた。腑に落ちないといった顔のホノカもその後ろに続く。

「ふ、副議長の執務室は二階の一番奥の部屋です」
「気を利かせてくれてありがとう。また会いましょう、ごきげんよう」

 ゆっくりと振り返り、大輪の花のような笑顔でアスカは最後に付け加えた。その様子は、まさに高貴なる生まれのご令嬢さながらであった。あか抜けた街娘のような格好ではなく、豪奢なドレス姿であれば、それは疑いようもなかったであろう。

 後日、彼の持ち場が偶然にも門兵から副議長室前の警備に切り替わる。そのこともあって彼はすっかりアスカの素性を勘違いしてしまうのだが、それはまた別の話――。



「どう、アスカちゃんの演技も捨てたものじゃないでしょ?」

 いたずらが成功したうれしそうな笑顔でアスカは口を開いた。あまり騒ぐわけにも行かない場所なので、その声は小さい。

「いったいどういうことなんだ? さっぱりわけがわからないよ」
「ミステリアスな女性は魅力的っていうじゃない? 秘密の一つや二つは、女の子の武器なんだから。もっとでーんと構えてなきゃだめよぅ、小さなことは気にしないの」

 と、得意顔で答える。またもはぐらかされ、ヒロはどうもこのペースが掴めないまま従うしかないのかとため息をつきたくなった。

「あのアスカさん。これから向かう副議長さんが、その情報提供者なんですね」

 ホノカの言葉に、先頭を歩く少女は一つうなづいた。

「そーよん。昨晩いろいろあってね、運良く覚えててくれたんでしょ」

 運良く、とは言っているが、明らかにアスカには勝算があった。それだけの準備を昨日の内に施してある。いろいろ、の部分にこめられた思いは深い。

「ま、あとは会ってみてのお楽しみってことで」

 それっきりアスカは上機嫌に鼻歌を歌いながら先頭を歩きつづけた。ヒロとホノカは顔を見合わせ、肩をすくめて偽りのご令嬢に従った。


「お父様、約束通り参りましたわ」

 そういってアスカはその扉を開けた。2階に上り、幾度か角を曲がってたどり着いた場所だ。アスカは初めてとは思えない足取りで、迷わずここまでたどり着いていた。

 開け放つと同時に、すっと大きく息を吸い込み口を開く。

「ずいぶんと遅くなってしまいごめんなさい、隠密で屋敷を出るのに街娘風な服を見繕っていたら、服室の暗がりからお父様からいただいていた猫のゴーシュが飛び出してきたんですの。もうあの子ったらあれほど服室には入らないでって言っているのに、気が付くと忍び込んでるんですのよ。ですから私、躾をしようとゴーシュを追いかけて追いかけて、裏庭を端から端まで駆けたのですが、それでもゴーシュはつかまらなくて結局逃げられてしまいましたわ。あの猫ったらほんと人が怒っているのには敏感で、まるでお父様みたい……ってあら、話がそれてしまいましたわね。……ともかくお待たせいたしました」

 両開きの扉の向こうには、不必要に豪奢な机と書棚、でっぷりと肥え太った短躯の中年男と若い女性が一人いた。服装からすると身辺の世話係なのだろうと思われる。

「もう大変でしたわ、門兵は私のこと疑いのまなざしで攻めますし、顔はそこそこでしたが、全然気が利かなくっていけません。いくら人手が足りないといっても、もっと頭の良い方を雇っていただかなくては困りますわ、お父様」

 ぺらぺらとしゃべるアスカの姿を確認し、男はすっかりと生え際の後退した額をなで上げながら、そばに立つ女性に目で下がるように伝える。男の頬には大きな白い布が貼り付けられており、丸顔に包帯でそれを留めている様は虫歯に苦しむ子供の様子と重なって見え、ヒロはこみ上げる笑いを抑えるのに必死だった。

「そんなところに突っ立っていないで、さっさとなかに入らんか」

 副評議長と称されるその男は、ぶっきらぼうにそれだけ言った。肥満型の体形の者には典型的な妙に甲高い声だ。すると、それを合図に女性は一礼し部屋を出た。

「ごめんあそばせ、少々お時間をいただきますわ」

 すれ違いざま、アスカはそう呟くのも忘れない。きぃ、と小さく音を立てて彼女ら3人の後ろで扉は閉ざされた。すぐにツカツカという足音が遠ざかって行く。

「後ろの二人はなんだ」

 数呼吸おいて不機嫌そうに短くその男、ハウザーが問い掛けた。

「あらいやだわ、お父様。この前うちの屋敷にて雇った剣士でしてよ、二人とも」

 あくまでも先ほどからの口調を変えないアスカ。口元には柔らかな笑みが張り付いているが、瞳は笑おらずまっすぐにハウザーを見据えている。

「お父様達の雇っている兵士なんかより、ずーっと気が利くし腕も立つし……」
「もういい、あの女は一刻も早くワシから離れたがっているからな、聞き耳なんぞたてちゃいまいよ。それにこの部屋は壁も扉も厚い」

 副評議長の地位にある男は、吐き捨てるようにそういった。

「日ごろから密談の場として使われるような場所だからかしら、それならそれでかまわないのですけれど。ああそうそう、二人は旅の剣士様、これは本当のことですわ。少々ご縁がありまして、ご一緒に行動していただいているんですの。そのあたりの詳細は、お父様はあまり興味ないでしょうから割愛させていただきますわ」

 ヒロとホノカを振り替えり、今は黙っていてと言うように目で合図する。その思いが通じたのか、二人とも小さくうなづいて答えた。

「……それじゃ改めて」

 コホン、と小さく咳払いをし、先ほどまでの芝居がかった口調を元に戻す。

「ハウザー副評議長殿、顔の印はまだ消えていないようね」

 さまざまな感情を含んだ笑みを浮かべアスカは言った。あからさまな舌打ちの音が、執務室の中に響いた。

「まったく、とんだ災難だ。なんだ、おまえの要求は、金か。それよりもこれは消えるんだろうな」

 独楽鼠のようにきょろきょろとせわしなく動き回る小さな瞳。不機嫌そうに眉をしかめ、ハウザーは答える。ひどく苛立っているようだ。対するアスカは実に飄々と構えている。

「ええ、もちろん消せるわ。でも今はそれよりも先に、昨晩のお話をもう一度聞かせてくれないかしら。この二人に」
「おまえが話すがよかろう、熱心に聞いていたではないか」

 だが、もうそんなことはどうでもよいと言いたげな表情で、フンと一つ鼻を鳴らす。

「あら、本人からのほうが信憑性があるじゃない。そういう大切なことは」

 あっさりと切り替えして、アスカは顔に巻きつけられた包帯を指し示しさらに付け足す。

「それ、いつまでも巻いてるわけには行かないわよね。今は評議長が前線に行ってるから誰もとがめないでしょうけど」
「……ワシを脅す気か」
「まぁそう思われてもいいけど。もうお抱えの治療師には見せたんでしょう? それで消せないって言われてるんだろうから、選択肢はないと思うけど」

 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべるアスカ。ハウザーの面積の広い額に青い血管が浮かび上がる。

「わかった。話そうではないか、おまえがいったいどんな目的をもっているのかは知らんが、無事にこの館を出れるとは思うなよ」

 自らの年の半分にも満たないような小娘に良いように操られているという事実からくる怒りを押し隠そうともせず、不機嫌そうにハウザーは口を開いた。

「大丈夫、きっと私達は利害が一致するから、そんなに敵対視しなくとも、いい方向に向かうって」
「フン、どうかな、信じられん」

 ――頑なねぇ。

 アスカは口には出さず、そう心の中で呟く。そして、それくらいじゃないとやってけない世界なのだろう、としみじみ思う。

「それは数日前のことだ。この執務室に突然、女が『転移』してきたのだ。そしてワシに、あの砦に捕らえられている『沈黙の谷の賢者』について語りだした」

 不承不承話し出すハウザーの言葉に、ヒロもホノカもじっと聞き入った。


「……そ、それは本当のことなのか……?」

 薄暗い部屋。古ぼけた机の上に置かれた光度の低い魔法灯の、かすかな明かりがぼんやりと部屋の中の人物を浮かび上がらせていた。目深にかぶった黒衣が闇夜に解け、口元には冷ややかな笑みが浮かんでいるように思える。

 外は夜。今日は月も雲に隠れており、不気味な静寂が街を推し包んでいた。

「――信じる、信じないはあなた自身のこと」

 少女とも少年とも取れるどこか中性的な声は、不必要に豪奢な机の向こうにたたずむ小男に、何の感慨ももたないのか実に淡々としたものだ。ただ事実を述べ、ただあるべきことを伝えるのみの彼女には、その男のこの街での地位や矮小な野望など極めてどうでもいいことであった。

「しかし、なぜそのようなことを知っているのだ」

 うぐぐ、と奥歯を噛み締めるようにしてかろうじてそんな言葉を吐くと、真実か虚偽か見極めようとわずかばかり目を細めて直視する。だが、フードの奥のその瞳は見ることができず、短く切りそろえられた髪が赤いということだけかろうじてわかったくらいだ。

「すべては導く者の意志の元にあり、私はそれを伝えているにすぎないのです」

 羽織った漆黒の長衣からのぞく、黒皮の手袋には赤い魔法文字が刻まれている。占い師というふれこみで接触をしてきたものは数多くあれど、この者のようになにも得物を持たずに現れた者は初めてであった。本来ならば歯牙にもかけないのであるが。

「うぐぐ……」

 この自称占い師は、封魔の施されたこのティレンサイド議会舎に直接『転移』してきたのだ。副議長に甘んじるこの男の部屋に直接、本人の目の前に忽然と現れたのである。その力を認めざるを得ない。

「わ、わかった。それでお前の望みはなんだ……?」
「望みなど。これはただの気まぐれ。うまく情報を使うもよし、あとから後悔するもよし。真実はそれほど難しいことではないのです」

 あくまでも淡々と対峙する占い師に、言い知れぬ不安と、そしてそれまで秘めていた野望の心を揺さぶられる。

「沈黙の谷の賢者は、あらゆる運命を見、操ることができるといいます。人の生死にかかわる運命さえも揺るがすその力はまさに奇跡。あなたはその運命を掴み、自らの好きなように操作すればよいのです」
「だが、どうすれば、捕らえられている者を奪取できるというのだ」
「敵兵の数はこの街の兵よりもずっと少ない……、砦の中に配置する兵などたかが知れた数のみ。そして、あなたは知っているのではないですか」

 口元をわずかに歪め、その占い師は言う。はっと、ハウザー自身の表情も変わる。

「なるほど、そういうことか」
「すべては、導くものの意志のまま」

 むくむくと野心の心が鎌首をもたげてくる。第二の地位に甘んじつづけるこの状況を打破する切り札が手に入るかもしれない状況に、いや、世界を掴むほどの好機に、彼の胸は躍った。

「お主、私に仕えぬか? 報酬もたんまりと出そ……む」

 ハウザーが再びその占い師を見ようと首を上げたとき、すでにそこには誰もいなかった。現れたときと同様に、気が付くと忽然と姿を消していた――。


「そんなことを花街界隈でべらべらしゃべってたみたいだから接近したってわけ」

 一通りハウザーの話が終わるころ、アスカが口をはさんだ。

「ハナマチ……? いでっ」

 疑問顔で青年が問い返す隣で、頬が真っ赤に染めたホノカが思い切り彼の足を踏みつけていた。歓楽街というものなど存在しない辺境生まれの彼には、予想もできない天地であったが、少女のほうは知識だけはあった。そのため青年がそれ以上訊かないようにと、話をそらすように自ら問い掛ける。

「その占い師の胸の前に、大きな魔法具のような飾りはありませんでしたか?」

 ハウザーの言う占い師は、あの時3人が霊峰で対決した魔将軍の姿に酷似している。漆黒の服装に赤い髪、手袋に刻まれた魔法文字と、残る特徴の魔法具が一致していれば、それはもう疑いようもない。

「魔法具……? そんなものがあったような、なかったような。いずれにせよそれほど長い時間でもなかったし、部屋も薄暗かったため覚えてはおらん」

 不機嫌な口調は以前変わらず、ハウザーはむっつりとした表情で答える。

「そうですか」

 ホノカは肩を落としてそれだけ呟いた。

「しっかし、よくわかんない話よねー、なんでわざわざあんたなんかの前にそんな力をもった占い師が現れたのかしら」
「そんなことは知らん。……だが、」

 アスカの問いかけに対する答えを、勿体をつけるように一旦言葉を区切り、たっぷりと余裕を持たせてハウザーは口を開く。

「敵が集結している砦には秘密の道がある。その場所をワシは知っておる」

 アスカはその言葉を確認し、再度不適な笑みを浮かべた。

「というわけで、ここで一つ提案があります。私達がその砦にこっそり侵入して、その賢者を助け出し、副評議長の元へつれてきましょう」

 指を一本立てて、さも名案といわんばかりにアスカは何度もうなづきながら言った。

「したたかな盗賊気取りか、ワシにはおまえらを信用する後ろ盾がない。おまえらなんぞに教えられるわけがなかろう」

 だが、ハウザーは取り合わず、大きく鼻を鳴らしただけであった。

「うーん、じゃその信用を得るために、その顔の印を先に消してあげるっていうのじゃだめ?」
「あたりまえだ、そのまま逃げたっておまえらにはなんの痛手もないではないか」
「それもそうねぇ」

 押し問答が繰り広げられるさなか、ついにアスカはとんでもなく大胆なことを言ってのけた。

「……じゃぁ、こっちの女剣士を人質にするっていうのではどう?」

 一瞬、何を言われたのかわからず、ヒロもホノカも言葉をなくしてしまう。人質にされる当の本人が、自体を飲み込めず目を丸くしてアスカの瞳を見つめ返した。

「アスカ! そ、それは駄目だ、そんな条件は飲めない!!」

 隣では、青年が猛烈な抗議をはじめる。

 その様子を見て、副評議長の顔つきも若干変化した。先ほどまでの不機嫌なだけの表情ではなく、いくらかの優位性を見出し始めたのだろう。この若者達には、何が何でもその賢者の力が必要なのに違いないと、憶測をつけたのだ。

「ふむ、なかなかに面白い提案だ。だがそれでもワシの抱えるリスクは大きい、その女を見捨てて逃亡されてはかなわん」

 だから、その必死さを利用し、最終的に自分の利益になるような展開に持ち込めるよう、金と権力にまみれた狡猾な脳がフル回転をはじめた。

「そんなことあるわけないだろう! じゃなくてアスカ、そんなこと勝手に決めるなんて困る」

 だが、動揺に声を荒げるヒロのその肩にそっと手を置き、ホノカは一つうなづいた。

「いいえ、その条件で構いません」
「ホ、ホノカ、本気か!?」

 常軌を逸した回答に、青年は仰天する。こくんと小さく頷き、好きにさせて欲しいと瞳で訴えかける。少女の言葉はさらに続いた。

「それに単純に人質にするよりももっと効果的なことがあります」

 腰に結わえていた細身の剣をすっと外し、鞘に収めたままの刃を、ホノカは目の前で横一文字に構えて見せた。流れるようなその動作に皆目を奪われて口を閉ざす。

「私は天馬騎士。貴方の元に仕える者として天馬を駆り、戦場に出て戦功を上げてきましょう。それならば、たとえ二人が目的を果たせなかったとしても、貴方には功績が残ります。それでどうですか?」

 身を明かすことは極力避けなければならないと、彼女自身解っていたのだがそれでもこの場でハウザーの信用を得るには、そうするしかもう他になかった。

 今度はハウザーが目を見開き驚嘆の声を上げる。いや、彼ばかりではなく、ヒロも、そしてアスカも動揺を隠せなかった。

「天馬騎士だと!? ノースグリーヴのか!?」

 興味津々といった好奇の瞳で舐めまわすようにホノカの姿を見やる。高貴な空気を身にまとう少女は、その剣の鍔に彫られた意匠を確認するように一目見ると、

「はい。私の名はホノカ。わけあって旅をしている身の上ですので、それ以上の名は名乗れません。ですが、もしその条件を飲んでいただけるのであれば、力の限り戦うことをこの剣と、天馬騎士の誇りに賭けて誓います」

 わずかに鞘をずらし刃の根元に彫られたノースグリーヴ王家の紋章を顕にした。

 ぐっと奥歯を噛み締め青年は言葉をのむ。ホノカの決意がそこまでのものならば、もう彼には止めることはできなかった。アスカもわずかに眉をしかめた。

「面白い、面白くなってきたではないか」

 突然舞い込んだ話に、俄然ハウザーの気も大きくなる。喉の奥で笑うようないやらしい声を上げながら肩を振るわせる。

「わかった、その条件でいこうじゃないか」
「交渉、成立ね……」

 そう呟くアスカ声音は、心なしか苦渋に満ちた暗い響きを含み、あと切れ悪くヒロの耳にいつまでも残った――。



 疑い深いハウザーの要請で、そのままホノカは評議会の舎屋内に残ることとなった。後ほど遣いの者を宿によこすから、彼女の荷物はその者に引き渡すようにと。その遣いの者に詳細な地図を渡しておくからと。

 別れ際、少しの間だけ二人っきりになった時にホノカはこう言っていた。

――アスカさんのことを責めないで。

 これは自分の意志なのだと、少女は伝えた。

――敵が魔軍と呼ばれる者たちならば、きっとあの闇の眷属が前線に出てくるはず。戦う者達の指揮をとるには、天を駆ける私の力がきっと役に立つから。

 心配顔のヒロを励ますように、いつもの笑顔で言う。

――もう三度も、彼らと対決しているんだよ。大丈夫、フォルテと一緒なんだし、安心して、沈黙の谷の賢者様を救い出してあげて。

 青年は素直にうなづいて応じるしかなかった。彼女の無事を祈り、信じるしかなかった。


「なぁアスカ、一つ聞きたいことがあるんだけど」

 帰りの道のりはやけに遠く、交渉が成功したのにもかかわらず足が重かった。

「なに? スリーサイズと体重なら教えないわよ」

 アスカの軽口も、なぜか形式的でいつもの魅力がなかった。ヒロにはそれも気になっている。もっと別な交渉をしかけるつもりだったのだろう少女は、ホノカをだしにしてしまったような格好になったことをずいぶんと悔やんでいるようだった。

「あのハウザーって男の顔の『印』ってやつのことなんだけど」

 だから極力話題を作ろうと、ヒロは一つ疑問に思っていたことを口にしてみた。

「なんだ、そんなこと。昼間にも言ったけど、これ」

 少女は、そこでようやく少しだけ元気を取り戻し、指にはめられた無骨なリングを再度掲げて見せる。なんとか笑みを取り戻したアスカに安堵を覚えていると、

「これにはちょっとした仕掛けがあってね。こうして……、せーのっ」

 何を思ったか、すぐ近くに植樹されていた街路樹に思い切り右拳を叩きつけた。鈍い音が響き、そして、白煙がその堅く握り締められた拳と樹皮の間からすっとたなびいた。

「な、なんだぁ」

 目を見張るヒロに、振り向いた少女は説明を加える。

「リングの表面に衝撃を与えると、封じられている魔法が発動してね、ほら」

 そう言って拳を樹皮から離すと、そこにはリングに刻まれていた模様を鏡返しにした模様が焼き付けられていた。

「こんな風に印を刻むのよ。もともと契約書類に印を押すためのリングなんだけど、まぁちょっとした護身道具にもなるし、結構重宝してるんだ」

 今朝方殴られた驚異的な破壊力を持った拳に、加えて焼印付きとは。

「へ、へぇ〜」

 契約のために魔法的な力が働いているのならば、めったなことでは消去されることのない刻印になるのだろう。つくづく殴られたのが左でよかったと思えた。

「あの短足デブハゲもいい情報をくれるだけだったらよかったんだけど、そのあと不埒にも私のおしりを触ろうとするから、一発お見舞いしてあげたってわけ」

 そう言ってアスカは肩をすくめて見せた。まだ本調子ではないだろうけれど、そうそうくよくよしてもいられないといった様子で、少女は笑った。青年もつられて微笑む。なんとかなるだろう、きっと。

「ところでそれ、本当に消せるのか?」

 もう一つ、気になっていたことを聞いてみる。

「さぁ、知らない」
「え?」

 そっけなくアスカは言った。思わず耳を疑って少女を見返したが、張本人は肩をすくめるばかりだ。

「いいのよあんな奴、そのうち私に手を出したことを本当に後悔するんだから!」

 そう答えて、彼女は再度歩き出す。その後ろ姿を見つめながらヒロは、女は怖いなとしみじみ思った。

 そうして、宿の程近くまで帰ってきたときのことだ。出歩く人のない大通りを、ガラガラと大きな音を立てて四頭立ての馬車が駆け抜けていった。なにか一大事でも起きたのか、普段ならば絶対に出さないような速度で一気に通りを過ぎていく。乗っている御者も必至の形相で、何度も鞭を打ち付けていた。

「邪魔だ! どけ!」

 大声で怒鳴られ、ヒロもアスカも素直に道端によった。何あれ、と言いたげなアスカの瞳が、ヒロの目に印象的にうつった。馬車は二人をすれ違い、議会への坂を登っていく。

「あっ」
「どうした、危ないな、急に立ち止まったりして」

 半歩ほど先を歩いていた少女に突然立ち止まられ、その背中にぶつかるすんでのところでヒロは足を止めた。

「んー、今の馬車の立てたゴミが両目に入っちゃったみたい。あいたたた……」

 そう言ってアスカはごしごしと瞳を擦る。みるみるうちに目が充血で真っ赤になって行った。

「大丈夫か」
「う、うん平気。ちょっと宿の裏手にある井戸までつれてってほしいんだけど、そこで目洗うから」

 大丈夫とは口で言っても、まともに瞳を開けるのもつらそうにして、ぽろぽろと涙をこぼしながらアスカはヒロの腕を掴んだ。夕暮れも押し迫っており、あたりは薄暗い。そんな状態ではいくら地元の街並みとはいえ、まともに歩くのも難しいだろう。幸い、宿はすぐそこだし、青年は二つ返事でわかったと答えた。



 結局一日宿で過ごしてしまったタエコは、窓際でぼんやりと薄暗く暮れていく街並みを見下ろしていた。すぐ隣のベッドではエミルが眠りについているこの部屋は、彼女の部屋ではなくて青年が寝起きしていた部屋だ。今朝、アスカが寝ていたベッドに、本来青年が寝ているべきだったベッドに、猛烈な嫌悪感を抱きながらもどうしても気になってしまい、こうして確かめに来ていた。

 だが、すでに部屋は整然と片付けられていて、情事の名残のようなものは何一つ発見できなかった。

 そんな事実、あるわけがない。自分は少し神経質になっていただけなんだ。

 そう自分に言い聞かせると、ようやく落ち着くことができた。第一、あの奥手で甲斐性のない青年だ、幼馴染の自分の手を握るにもどぎまぎするような彼に、彼女が心配しているような大それたことはできないだろう。

 そう思うと、なんだか焦っていた自分がものすごく滑稽に思えた。

「あ、帰ってきた……。あれ……?」

 窓から見下ろす街路に、ヒロの姿を見つける。だが、ホノカはおらず、アスカと二人で寄り添うようにして歩いていた。なんだろうか、胸の中で嫌な感情が渦を巻く。どうして二人なのだろうか、どうしてホノカはいないのだろうか。

 ゆっくりとした足取りで、こちらに向かっている。アスカは泣いているのか、しきりに目を擦っていた。

「……な、なに、なんなの……?」

 不安に押しつぶされそうになる小さな胸。それまで経験したことのない感情、そうそれは――嫉妬。

 二人は寄り添いあって、宿の裏手へ回りこむように横道に入った。もうこの部屋からはその姿を確認できなくなった。

 タエコは立ち上がると、そのまま部屋を出た。階段を下りて裏口へと向かう。

 確認をしなくてはならなかった。一体どういうことなのか。

 朝は逃げ出してしまった。だが、今は逃げ出すわけには行かなかった。

 裏口までのなんて事のない短い距離が、とてつもなく遠く感じられた。



「うー、なんかまだ取れてないような」

 井戸の水をくみ上げて、ぱしゃぱしゃと顔を洗う要領で目を洗っていたアスカだったが、どうもうまくいかず瞬きをしきりに繰り返している。かわいそうなくらいに真っ赤に染まった瞳が痛々しい。

「短い馬の毛でも入っちゃったかな、見てあげるよ」

 心配そうな顔でそういいながら、青年はアスカを近くの石に腰掛けさせた。伸長差はそれなりにあるが、座ってもらったほうがいいと判断してのことだ。もう暗くなってきているから、もしかすると中に入ってから見てあげたほうがよかったかもしれなかったが、そのときはそこまで気が回らなかった。

「ん、よろしく」

 少し上を見上げ、素直にそれに従った。裏口の扉に背を向け、アスカと対峙する。青年を見上げる彼女からも、扉のところに誰かがいることはわからなかった。



「……キ、ス……?」

 薄暗がりで、徐々に近づいていく二人の唇。彼女には、そうとしか見えなかった。
 涙が溢れ、すぐに何も見えなくなった。頬を伝った雫が、切なげに離れ木床に染みを広げていく。

 あるいは、あと一歩この扉から出ることができていれば、状況は変わっていたのかもしれない。

 だが、それはできなかった。その一歩が踏み出せなかった。

 もう逃げださないと、決めたはずだったのに。

 その決意はあまりにももろく崩れ去った。

 背を向けて、部屋へと駆け出す。階段を上る足がふらつき、踊り場で惨めに転んだ。

 朝よりも酷い状況に、倒れたままあまりにもおかしすぎて泣きながら笑った。

 起き上がると、また階段を上り始めた。手すりを頼りに、まるで足腰の弱くなった老女のように。

 部屋まで戻ると鍵をかけるのも忘れてベッドに飛び込むように倒れ、枕に顔を押し付けて泣いた。ただただ涙が溢れるばかりで、声は殆ど出なかった――。



「タエコ、具合は大丈夫か?」

 夕食を辞した少女に、ヒロは食事を部屋まで運んできていた。ハウザーの使者が現れた折、アスカにホノカの荷物をとってきてもらったのだが、そのときは掛け物を引っかぶったまま身じろぎ一つしていなかったといっていた。おそらく寝ているのだろうと。

「……」

 返事はない。アスカの言う通り寝ているのだろうか。持ってきた食事を小テーブルに置く。

 使者が持ってきた地図と今後のティレンサイド軍の動向裏書から、大体の行動予定を考えたところで、アスカは準備があるからと宿を出て行った。だから今宿に残っているのは、彼とタエコしかいない。ヒロの口から、明日のことを伝えなければならない。

「急な話なんだけど、明日朝出発することになった。今回ホノカは別行動する。事情は歩きながら話すから」

 正直な話、アスカの参加は反対したかった。戦士として戦えるホノカでも、強力な魔法を操るエミルでもない。自分の身を守れるかもわからない状況で、危険だという話を散々したのだが、彼女の決意は変わらなかった。

 タエコが眠っているのならばそれでいい。聞いていないのならばそれでもよかった。

「……」

 あとでまた怒られるだろうけれど、万全の状態ではない彼女を無理やり引っ張っていくわけにも行かない。アスカがどれだけ戦えるのかはわからないが、明かりを持つくらいのことはできるだろうし、一人ならばフォローもできる。

 そう考えて、青年は次の言葉につないだ。

「明日の朝までに体調が戻らないんだったら、俺とアスカの二人だけで行くことにするから、ゆっくりと休んで……」

 そのとき、タエコの体が勢いよく起こされた。

「いくわっ!! 絶対に行くわよ!! だから早く出て行って!!」
「うわぷっ」

 そして同時に、枕が投げつけられる。物凄い速度で真っ直ぐに飛んできたそれを見事に顔で受け止めた青年は、いったい何が起きたのか容易には理解できなかった。

「お、おいどうしたんだよ、タエコ……」

 わずかによろめきながら、心配そうに幼馴染の顔を覗き込むと、真っ赤に染まった腫れぼったい双眸が、鮮烈に脳裏に焼きついた。泣いている、何故?

「今はもうなにも話したくないの!! いいから早く出て行ってよ!!」

 間髪いれず、タエコの言葉が飛んでくる。

「わ、わかった……、じゃあ朝になったら下で落ち合おう。ちゃんと食事はするんだぞ」

 それだけ言うと、青年は動揺しながらも部屋を後にした。きぃという軋み音を響かせて、扉が閉められる。

「二人っきりでなんか、絶対に行かせないんだから」

 扉の向こうのヒロには、タエコの呟きは届かなかった――。

To be continued.



    
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