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 コツコツと一定の間隔で、床を叩く革靴の音が響いていた。

 そこは静かな空間だった。石造りの回廊にはぬくもりを感じさせるものなど何一つなく、わずかに植生する光苔とそれを糧として生きる地虫以外には生きているものなど存在すらしない。

 すでにこの場所が放棄されてから途方もない年月が経過している。

 よほどの強度を持った石類で造られたのか、永い月日を経た今も風化せずに残っているこの砦。遙か昔、地上人と海竜神との闘争のために建造されたことは既に歴史の彼方の事であり、今や吟遊詩人達の間で伝承として唄われるくらいのものだ。

 海にほどちかいティレン川の河口に建造された砦の中には潮の香りが充満している。眼下に広がる河川は向こう岸が見えないくらいに広大で、潮の満ち引きによって淡水と塩水が混ざりあっていた。幾度となく氾濫を繰り返してきた大河に浸食され荒々しく切り立った崖の上に、その要塞は慄然と存在している。どっしりと平原の東果てにかまえ、人の栄枯盛衰を眺めてきたにちがいない。

 難攻不落とまでは行かないが、太古の超技術で造られているためか海竜神の攻撃にもびくともしなかったと伝えられている。だが、この時代の人々には不可解なことの多い砦であり、まともな感性の持ち主ならば気味悪がって近づかないようなところでもあった。

――これほどの砦を築きあげる文明が滅び去るのならば、我らの未来はどうなるというのか。

 太古の砦を目の当たりにして、ここを拠点にひとつの街を落とそうと画策する者、魔将軍アキラ・イル・トリティエは強く唇を噛み締めるのだった。



センチメンタルファンタジー
第十七話「錯綜」



 宿屋の朝は早い。都会でも田舎でもその原則は同じようだと、タエコは思った。

 東の空がわずかに暁の紅色に彩られる頃、階下からかすかに聞こえる音にふっと目を覚ました彼女は、ぼんやりとまどろむ意識でそんなことを考えていた。かつかつと同じ間隔で刻まれるのは、朝食の仕込みの音だろうか。

 これまでの旅路でも何度となくこういった宿に泊まってきたが、何故か今日に限って故郷のことを夢に見た。村で生まれ育った父は、一時期隣国の王宮学習機関に籍をおいたこともあるほどの文人肌であったが、その後故郷に舞い戻り家業の宿を継いだ。理由は解らないがそのことを考えると、なぜか胸が激しく動悸を刻む。もしかすると母が村の生まれで、父の幼なじみだったことが起因しているのかもしれない。それに自分を重ね見ているからなのかもしれない。

 辺境で旅人達がくることなど滅多になく、あまり宿として機能することのない名ばかりの宿泊施設であったが、それでも朝は早かった。食堂として毎日利用する村人達がいたからだ。

 結局帰ってくることのなかったアスカのベッドは空いたままになっている。

 この街生まれの少女は、きっとたくさんの情報網を持っているのだろう。だから、その聞き込みをしてくれるという行為自体は非常にありがたかったが、強い貞操観念のあるタエコとしては朝帰りさえもしないアスカにあまり好ましくない印象を受けるのだ。タエコ以上に潔癖なホノカは、そういったことさえ考えないのかもしれないが、彼女にとっては決して軽い問題ではなかった。

 アスカのことは嫌いではない、とおもう。どんな人生をおくってきたのか自分には予測もできないが、人見知りというものを知らない誰とでもとけ込むことのできる彼女の性格は心底うらやましい。見方を変えれば、とんでもなく馴れ馴れしくうつる行動も、なぜか皆許容してしまう。これはもう天性の才能というものなのだろう。

「んっ……」

 起き抜けのぼーっとした頭で後ろめたい考えをし続ける不毛さを振り払い、気持を切り替えるように一つ伸びをした。アスカにだってアスカの生き方がある。人となりの側面だけを気にして毛嫌いしていてはヒロになんと言われるかわからない。いわゆる女の武器を売りにしていることを容認することは難しいことだが、なんとか理解してあげたいと心から思った。

 そのまま二度寝も選択肢としては魅力的なものだったが、少々寝汗をかいていたためさっぱりとしたいという気持もあり、裏の井戸で顔を洗ってこようとタエコはベッドから降りた。薄手の部屋着だが、こんな早朝でもあるしとくに誰に見とがめられることもないだろうと、そのまま廊下へ出る。床のきしみでホノカが起きてしまわないか心配だったが、どうやらまだ夢の中のようだった。

 廊下に出るとすぐ、隣の部屋の扉が反開きになっているのが目に入った。ヒロが眠る部屋だ。不用心だなとタエコはその扉を閉めるため歩み寄る。

 思えばそのとき妙な胸騒ぎがしていた。胸がかき乱されるような、けれど理由のわからない逡巡が渦を巻く。しっかりと締めてそれで終わり、それだけの動作をするだけなのに。

 ドアに手をかける。わずかな隙間から、扉のすぐ裏手に転がるワインボトルが見えた。

――なんでこんなところに?

 ヒロは好きこのんでアルコールの類を口にはしない。疑問を感じつつも軽く押し開けて、瓶を拾おうと腰をかがめたところ床に倒れる青年の足が視界に入った。眠れなくて酒をあおり、そのままひっくり返ったのだろうか、ろくに掛け物もしていないようだ。

――それにしても……。

 とりあえず瓶をたてて置き、ちゃんとベッドで寝るように青年を起こそうとと部屋の中へと進んだ。部屋には2つのベッドがあり、奥にはエミルが横たえられている。

 が、タエコの足はそこで止まった。いや、前に進めなかったのだ。その光景を目前にして。

「……う、嘘よ」

 がくがくと膝が震え、喉がからからに干上がる。絞り出すようにしてそれだけつぶやくと彼女は逃げ出すようにその部屋を飛び出した。

 後ろ手でバタンと勢い良く扉を閉め、そのまま隣の部屋の自分のベッドへと舞い戻る。掛け物をひっかぶると途方もなく息が荒かった。そしてうるさいほどの動悸がやけに耳につく。

「……ど、どうして、どうしてヒロのベッドに……」

 本来青年が寝ているべきベッドに横になっていた人物。半裸、というよりもほんの申し訳程度の薄布しか身にまとっておらず、さも情事のあとといった様子で寝こけていた少女は、そう――。

――どうしてアスカがいるの?!

 理解を超越した突然の出来事に、タエコは奈落へ突き落とされるような感覚にさらされていた――。



「兵の準備は明日の朝には完了する」

 朝も夜もわからぬ砦の最奧部。来訪者であるアキラが持参した低質のうすぼんやりとした動物油ランプの明かり以外には辺りを照らす物のない、暗やみに包まれた部屋に彼女はいた。

 そこは、どこでどう曲がっているのかわからない、かすかな光のかけらさえも届かぬ空気穴が一つあるだけの石牢である。黴と埃と、わずか潮の香りだけが外界との接点という、咎人を生きながらにして狂死させるための縛鎖の牢獄だ。

 正確な地上との距離はわからないが、砦の基盤となるもっとも深い位置に設けられており、空気もじっとりと湿っていて時折どこかで水滴の音が響く。正常な精神の持ち主ならばおそらく、三日ほど閉じこめられただけで激しい恐怖と窒息感に押しつぶされ発狂してしまうだろう。

 アキラ自身も夜目はよく利くほうであったが、ここでは多少利くくらいでは階段さえもろくに降りることが出来ないだろう。真なる闇は、方向感覚を著しく戸惑わす。

 だがこの牢獄にとらえられた少女に明かりは必要がなかった。もともと光という物を、光という物質的側面で受け取ることのできない瞳には、どこに捕らわれていようとおなじこと、よって精神に乱れは何一つない。楚々とした仕草で石の寝台に腰掛ける盲目の賢者ミユキは、この暗闇のなかで場違いなほど美しかった。

「それで、どうする気なのですか?」

 凛としたアキラの声質とはまた違う、場違いなほどにたおやかで春の日差しを思わせるような柔らかさをもった声で彼女は返した。媚びへつらいなど一切感じられぬ清澄な音は石壁に瞬く間に吸い込まれていく。

 もうそこに何年も住んでいるかのように同化しているようにも見え、まったく相容れぬ存在として別世界に存在しているかのようにも見え、表情には出していないが少なからずアキラは面食らっていた。

 そのうえ彼女の存在にはどこか危うさがつきまとっている。月光の下に咲く、夜開花のごとき儚さとでもいおうか。

「知れたこと。ティレンサイドを落とす、ただ一つのみ」

 対面する魔将軍の答えはこれ以上もないほどに簡潔だ。もともとの性格がそうであることも少なからずあったが、この賢者の前ではそういった含みを持たすことが不要と判断してのことであろう。

 北大陸交易の要であるティレンサイドは、強国であるが軍事大国とまではいかない。中枢部である『議会』も政治と経済を司り、軍備については隣国のイーストエンドやノースグリーヴに遠く及ばなかった。

 だが商業国として敵の補給線を担われると厄介なことこの上ない国でもある。未だ連合の動きのない広い北大陸の中で、一番に攻め入るべきところであることは確かな事であった。さほど国交に詳しくない者でも、それくらいの知恵は回るだろう。

 ミユキは無言で、じっとアキラの表情を見つめる。いや、彼女の瞳は閉ざされたままであるため、正しくはその方向を向いているだけなのであるが、その瞼の奥の瞳に心の奥底を直接覗かれているような気がするのだ。居心地の悪さを感じ、アキラは付け加えた。

「そしてミユキの言った、私の運命とやらが現れるのを待つ」

 揺らぐ炎が、暗闇にさらに濃い影を生み出す。

「だが勘違いはするな。運命などという陳腐な言葉に夢想するほど私はロマンティストではない。世界を変える力、それがたとえ破壊神の力を借りたものだとしても私は受け入れるだろうし、現にそうしてこの位置まで上り詰めてきたのだ。幾多の命を散らせ、幾多の街を滅ぼし灰に帰した。自らの信念に躊躇いはない」

 それまでじっと押し黙っていたミユキはようやくそこで口を開いた。

「破壊はなにも生み出しません」

 しんと静まる空気に、言いしれぬ戦いの波動が満ちる。それは、ミユキにだけ視ることのできる未来の空気かもしれないし、アキラのまとう戦場の闘気なのかもしれない。

「だが、破壊しなければ生まれぬものもある。戦わねば、勝ち取れぬものもある」

 アキラは強い口調で返した。世界を破滅へと導こうとする者としてのその言葉には、何故か矛盾が感じられた。破壊を求める魔の軍に属しながら、破壊の後にいったいなにを勝ち取ろうというのか?

「戦いの果てに残されるものは、憎しみと悲しみだけです。焼け焦げた大地と疲弊した人に、あなたはなにを求めるのですか?」

 賢者と称されていようとも、彼女はまだ若い。未来を紡ぐという能力も、常に働くわけではない。アキラの考えをすべて理解するには、絶対的に時間が足りなかった。

「ならばミユキ、おまえはなにができる? 『視る力』を有するものとして、腐敗しゆく世界になにを見いだす? 我らが動かずとも、人は確実に後退し、かつての歴史を繰り返すことになるだろう。人と人が殺戮しあう歴史を繰り返すことになるだろう。この砦を築きあげた旧文明が、あっけなく滅びたように」

 孤高の鷹を思わせる鋭いまなざし。澄み渡っていながら、どこまでも奥深く誰しもが引き込まれてしまう蒼の瞳に射すくめられて、ミユキは返答の言葉を失う。圧倒的なアキラの信念がミユキを包んでいた。

「こちら側の大陸はまだどうかわからないが、大陸の南部の人の心には退廃が蔓延している。享楽的な生活を送ってきたツケだ、前の大戦の傷も癒えきっていないというのに浅ましいものではないか」

 前の大戦――、そう、わずか二十年ほど前に勃発した魔軍と人の闘争。永劫に続くかと思われた血なまぐさい戦を収めたのは、ある一人の英雄だったという。出自も大戦後の足取りも一般には知られてはいないが、伝説の英雄王ユゼスの末裔だとかなんとかとまことしやかに噂されていた。

「人の敵は魔でなくては駄目だ。そして魔は、圧倒的な力を持ってして完膚無きまでに人を叩きのめさなければ駄目なのだ。おまえはその時がきても目を閉ざしたままでいる気なのか?」

 彼女の言う破壊と再生。それは、諸刃の剣であることが目に見えて明らかだ。途方も無く大きな博打でしかない。英雄がいつの世にも存在するとは限らないではないか。

「――あなたは人の敵が魔であるから、人は勝利を勝ち取れる、というのですね?」

 だがミユキは、戸惑いながらもそうつぶやいた。半ば確信めいた予感がうっすらと脳裏に描かれる。大いなる痛みを伴った、自らの肉を引き裂く激痛を伴った、人の変革が。

「でもそれは、所詮弱者の淘汰としかなりえないのではないでしょうか。間引きをする事で勝手に成長するほど、人は単純ではないでしょう?」

 安易に否定するわけではないが、皮肉にもそういう回答になってしまう。

「わかっている。だがそれでも私は世界を喰らう蛇になるだろう。いやすでに人でさえないのかもしれないが、私の信念は一遍たりとも変わらない、変えられないといったほうがいいか」

 だがアキラは自虐的な笑みを浮かべながらそう返した。

「やがて滅ぶ世界ならば、切り分けは早い方が良い。多少の犠牲は仕方が無いし、私とてそれが双刃の剣と理解している。生きる価値のない存在ならば滅びるのもまた一興、時の英雄が再び現れて乱世を一つにまとめるも一興」

 ミユキにはそこまで割り切って考えることができない。たとえ凶悪な魔軍を打ち倒し根絶できたとして、人の勝利の果てに待っているものはなんだ? それは自明の理ではないか。そして多少の犠牲の筆頭に上げられるのは誰だというのか?

「では、あなたの勝利はどうするというのですか? あなたの意志は誰が受けるというのですか? それでは、あまりにも……」

 ミユキの悲痛な声をアキラはさっと遮って、言葉をつないだ。先ほどまでの張りつめた表情と違い、穏やかでさえある微笑を浮かべ答える。

「私は人を殺しすぎた」

 ミユキには視えた。高く掲げられた柱に磔にされ、槍に突き刺され、刃の傷走り、血涙を流しながらも絶対治癒術のかけられた古の拘束具によって死に逝くことのできぬアキラの姿が。

 アキラは言葉を続ける。

「世界を喰らった蛇はやがて、自らの身体をも飲み込み消え去る。おあつらえ向きの舞台ではないか」

 ミユキの視る彼女の左腕は途中で千切れ、足は力無くだらりとぶら下がり、胴を架に固定するのは鋼の荊で、いたるところから絶えず鮮血が滲んでいる。もちろん身に纏う衣などなく、白い柔肌に無数の痣と火傷を刻まれており、痛々しいことこの上ない陵辱の痕を晒す。

 そうして勝利の余韻に酔いしれた人は、魔の先兵となって己の仲間達を数多く葬り去った女剣士に、死ぬよりも辛い辱めを負わせ続けるのだ。これではどちらが邪悪な存在なのかわからない。

 その生贄とされた彼女は決して叫び声をあげなかった。斬られ、突かれ、礫をぶつけられても、意志強く前を見据え不敵な微笑を浮かべている。満ち足りた百の人生を歩むより、その人生は価値があったのだと言わんばかりに。最期の瞬間までも戦う意志を貫き通すと言わんばかりに。

 凄絶な光景であった。だが、どうしても目が離せない。普段それほど精細に視える事のない未来が、情景の事細かな部分に渡ってまで描写され、血の匂いと観衆の狂喜と熱気まで伝わってくる。しかも、それは遠い未来のことではなかった。

 小さくうめき声を漏らし、ミユキは戦慄した。彼女の紡ぐ未来は絶対の未来ではない。はっきり言ってしまえば幾多ある未来の可能性の一端が垣間見えるだけだ。それも確実な未来は鮮明に、漠然とした未来はぼんやりと視える。その事から考えると、ここまで明らかな未来像が視えてしまうという事は、アキラの運命は既に決定付けられているという事か。

「明日の正午をもって、攻撃を開始する。ここならばもし何かあっても最後まで安全だろう。私が迎えにくるまでじっとしているのだよ」

 ミユキの返事を待たず、アキラは彼女から背を向けた。

 手段や方法はどうあれ、アキラの高潔な魂はミユキの胸を打った。人にはない特異な能力を有しているがために心の根底で悟ってしまった。相容れぬ存在のはずなのに、何よりも近しく引き込まれている自分が在った。共感などという言葉ではとても言い表せぬ何かに、心の根を掌握されていた。

 自ら見た未来の光景が、これほど忌々しいと感じたことはない。

 そんな運命は変えなければならない。遠ざかってゆくアキラの足音を聞きながら、盲目の賢者は人知れずそう決意していた。



「……なぁ、……スカ、そろ……くれよぉ」

 誰かに肩を揺さぶられる感覚。心地よい眠りの世界から連れ戻す無粋な手。随分昔から知っているようでもあり、ことさら騒ぎ立てる必要もないと――つまるところ彼女はまだ起きたくなく――判断した彼女は、

「っさい……もう、ちょっと、寝かせ……て……」

 肩にかけられた手を無意識のうちに払いのけ、昨日は遅かったんだから、と、だれに聞かれるでもなくそんな言葉をぶつぶつと呟き、枕を抱いて突っ伏した。

「たの……さぁ、ほんと……ないし……」

 だが、まどろみの中にある意識を無理やり覚醒させようとする手は再び彼女の、寝入るアスカの剥き出しになった肩をつかんだ。その手は以外に大きく、眠りの中にあった彼女の思考に一寸の疑問を浮かべさせるに十分なものとなった。

――あれ、ここは……? 私は……。

 まぶしさに目を開けられず、ぼんやりとそんなことを考えていると、すぐ側で困ったような声で彼女を起こそうとする言葉が聞こえてきた。

「なぁ、早いところ起きてくれよ、こ、この状態をタエコ達に見つかったら、そ、その、気まずいというか……、い、今かえってきたふりしてさ、隣の部屋に戻ってほしいんだけど」

 次の瞬間ぱちり、とアスカの瞳が開かれる。そのすぐ目の前に困ったような引きつったようなにやけたような青年の顔。

「あ、起きてく……」
「いっやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」

 突然の奇声に面食らった青年の、そのあまりにも無防備な右頬に強烈なアスカの左拳がめりこみ、

「な、なぐり……?」

 ぐらりと体が傾いだかと思うと、白目をむいてそのまま綺麗にひっくり返った――。


 宿の一階、食堂になっているスペースの一角に彼らは陣取っている。一人遅い朝食を取るアスカと、律儀に食事の終わりを待つホノカ、そして朝から問答無用で殴られて少々不機嫌になるヒロ。奥歯がズキズキと痛んでいたが、なんとなく格好が悪くて言えなかった。

 遅い朝食の席に、何故かタエコの姿はない。

 ホノカが言うには、タエコはどうやら体調が悪いらしい。起きてはいるみたいだから、あとで食事運んであげてね、とどこか意味深な瞳で付け加えた。

 ヒロは部屋にひとつしかないベッドを占領され、床で寝ることを余儀なくされていたがあくびをかみ殺しなんとかうなづいて答えた。つい先日まで野宿を続けてきた疲れも残っているし、やはり相当無理がたたっているのだろうと思案を巡らせる。

 青年も疲労感は皆無ではなかったが、やはり基礎体力が違う。

 それにしてもアスカもアスカだ。深夜に帰ってきて、仕入れた情報とやらを話すこともそこそこに持ち込んだワインボトルを一人で開けてヒロのベッドで倒れるように寝てしまい、一人取り残された形の彼は大いに焦った。

 酔いのために無防備になっていたのか、それとももともとそういう性格なのかはわからないが、一人前の男の目の前で――しかもほぼ全裸に近い服装で――可愛い寝息を立てるなどとは、本当にアスカに信頼されているか、それとも甲斐性がないと侮られているかのどちらかであろう。

――単に行き当たりばったりなだけかも知れないが。

 もちろん、青年もなんとかしようとしたのだが、酩酊状態にある上勘違いされてしかるべき格好で青年のベッドを占領してしまっている事が、隣室で眠る少女達に助けを求めることを躊躇させた。明日の朝日は拝めないかも知れないと、冗談抜きに思ったほどだ。

 とはいえ、余計な疑惑をかけられないうちに身柄を引き渡しておく方がやはりいいだろうと決死の覚悟で隣室の扉をたたいたのだが、当然部屋には内側から閂がかけられており、少女達は何度ノックしても起きてくる様子がなかった。

 そのため、最終的にアスカのなまめかしい寝姿が視界に入らない位置で横になったのだが、やましい事実はないもののどこか後ろめたさがあり結局明け方まで寝付くことができなかった。ある意味野営の見張りよりも辛い、とヒロは一人感慨深く思っていた。タエコもホノカも、普段青年の前でここまで肌をさらすと言うことは絶対にしないため、こういった状況に免疫のない彼にはいささか刺激が強かった。

 そんな青年の心中を知る由もなく、朝風呂を浴びてからアスカが卓についたのは、すでに昼に近い時間帯であった。宿の顔なじみの特権とでも言おうか、ヒロたちのほかには誰もいない食堂で彼女は今優雅に朝食をとっている。ヒロの恨めしげな視線をものともせず、いたってマイペースで食事を続けた。

「それにしても、いきなり殴られるとは俺も思ってなかったよ」

 その幸せそうな表情を眺めながら、青年はぼやくように呟く。確かに役得といえば役得な役割だったわけだが、一瞬でも意識を失うほど強烈な一撃は久しく受けた覚えはなかった。

「寝ぼけてたんだからしょうがないじゃない」

 どこか恥ずかしげにアスカは言った。旬野菜を煮込んだスープをすすりながら、あんまり大げさに倒れすぎよ、とこぼす。

――人のことを怪力女みたいに言わないでよね。

 と、心外そうに心の中で呟いていた。

「タエコの平手打ちも相当だけどさ、アスカのは握り拳だったからなぁ」

 そんな彼女の様子に気がつかない青年は、まだ腫れの引いていない頬をさすりながら、のんきに感想を述べている。

「あら、それでも左だったからまだマシだったわよ」
「え、ど、どういうこと?」

 大きめに切られていながら柔らかく煮込まれた具を咀嚼し、嚥下しながらぽそりと呟くアスカにヒロが反応する。

「利き手が右だから、とか?」
「うん、そう、そうなんだけど、でも両方使えるのよ、右も左も。まぁ元々右利きだったからね、確かに左手の方が力は弱いわね」

 そこでもう一口スープをすすり続ける。

「一座に入ってからいろいろと特訓して両方使えるようになったの。両手ナイフ投げとか結構得意なのよ」

 アスカの回答に、なにか釈然としないものを感じたように、ヒロはかるく首を傾げた。右手なくて良かった、としみじみいうくらいなのだから何か他にあるのだろう。

「まぁそれが理由の半分。あと半分は、コレね」

 その瞳に気がついて、アスカは言葉を付け足した。そして右手中指にあるリングを見せる。

「ん? 指輪……にしてはちょっとゴツイ気がするんだけど」

 それは少女の細い指にはあまり似つかわしくない大きさの指輪だった。きらびやかな宝飾品を多数身につけているのに、そこだけくすんだ鈍色の武骨ともいえるデザインのアクセサリが巻き付いているのだ。よくよく見れば、相当に細かい彫刻がなされているいのだが、それにしても浮いていると言わざるを得ない。

「これにはまぁちょっとあってね、……そのうち教えるわ」

 指輪付きで殴られれば相当痛かっただろうなと青年は心底思ったが、どうやらそれだけではないようだ。いったいどんな仕掛けがあるのか気にはなったが、あまりしゃべりたくなさそうなこともあり、とりあえずそれ以上は訊かないことにしてヒロは頷いた。

 そんな物がなくとも、十分強烈な一撃だったのだから――。


「それで、見つかったって本当なんですか?」

 ホノカは、食事が一段落するのを待ってアスカに語りかけた。事の顛末はだいたいヒロから伝えられている。朝食前に裏の井戸で出会った時、彼は濡らした布で頬を冷やしていて、珍しく不機嫌だった。

 彼女がなにがあったのかを尋ねる前に、青年の方から「アスカに殴られた」と打ち明けられたのだが、ホノカにはあまりにも突拍子がなくてなにがなんだかさっぱり解らない。順を追って説明を求めると、ヒロはあらましを語ったのだった。

 もちろん、アスカ身につけていた極めて布面積の少ない服装のことや、帰ってきた直後にいきなり抱きつかれたことなどは伏せていたが。

「ええ」

 野菜中心のヘルシーな朝食をあらかた食べ尽くし、口元をナプキンでぬぐいながらアスカはうなづく。重ねられた大量の皿を見なければ、貴族の令嬢とも見える優雅さだったが、変なところ肝が据わっているのか頓着しない性格なのか、ヒロが胸焼けするような思いで見ていた食事風景もホノカにはなんの感銘も与えていないようだった。

「どんな方なのでしょう、昨日の話では力のある治癒師はみな前線に出払っているということでしたが……」

 朝早くからこの場所を陣取っている彼女の目の前に置かれたカップには、当の昔にさめてしまった紅茶がゆれる。味は悪くないが、そう何杯も飲むものではなく、気を利かせた主人が一度取り替えてくれてそれっきりになっていた。

「大丈夫、確かなスジから仕入れた情報よ。安心して」

 食事をとったことで昨晩の酒気もほとんど抜けたのか、彼女は落ち着いた声音で返す。昨晩の異常なまでのハイテンションさは、今はかけらもない。

「私達には時間がありません。それは先日お伝えしたとおりで、とにかく急ぎ取り次ぎ願いたいのですが」

 ホノカはアスカのゆったりとした態度に次第に焦れを感じ、やんわりと時間がないことを示唆する。

「うーん、それがちょっとまた一筋縄ではいかないというか……、難しいところなのよね、とっても」

 渋るわけではないが、アスカは実に曖昧な答えを返した。もちろんホノカも黙ってはおられず即反応する。

「問題ごとがまだあるのならば、私たちは解決するための努力は惜しまないつもりです」
「ああ、ホノカの言うとおりだ」

 二人のはやる気持ちは分かるが、アスカはどう説明していいものかと一瞬考え込んだ後、

「この街にはいないから、こちらから出向く必要があるの」

 と答えた。

「ではどちらに?」
「それが、問題なのよねぇ」

 ふぅ、とひとつため息をつきアスカは紅茶をすすり、話しを続けた。

「沈黙の谷、というものが北大陸の中央部に存在するの」

 はるか昔、緑の楽園として獣と人とが共存していたその場所は、気象変化と水源の枯渇により現在は不毛の大地となっているという。高い断崖と、鉱物を多分に含む特殊な地層ゆえにおよそ人のすめるところではない。

 所謂一言で表現するならば『辺境』なわけであるが、この場合、ブルーフォレアのような位置的に辺境にあるわけでなく、人のすむことのできぬ文字通りの荒野であった。

「その谷にいる、と?」

 どうしてそんなところにいるのかわからないが、話の流れとしてそうなのだろうと読んだホノカは尋ねた。

 が、アスカは首を横にふる。

「いいえ、確かに関係はあるけど、今回そこまで行く必要はないわ」
「それはどういうことですか?」

 いつになったら確信にたどり着くのかという思いを抱くホノカを尻目に、アスカは彼女の疑問符に直接答えず、回りもった言い方で説明した。

「街の東側に陣を張っているのは、得体の知れない軍勢。そういうことになっているんだけど、実態はそうではない」

 ぐっと、アスカの言葉のトーンが落ちる。微妙な時間帯であり他の客は誰もいないが、それでも事の重大さ故か自然とそうさせた。

 まさか、という思いと、諦めにも似たやはりという思いが交錯する。それはヒロもホノカも同じであった。

「魔軍、そう呼ばれるもの達」

 そして、少なからず心当たりのある二人はゴクリと息を呑む。

「そして、その魔軍の砦となっている旧世界の遺跡に、奇跡の治癒力を有した沈黙の谷の賢者がとらわれているの――」


To be continued.



    
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