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 闇夜に月だけが明るく浮かんでいた。雲はなくその光をさえぎるものもない。やわらかな慈しみの波を持つ月、その姿を見ているとあの銀髪の女神の姿が思い起こされた。フリーイッドといったか、その名は不勉強な青年でも良く知ったものであった。

 天の大神シィルベンドの左腕神であり第二位に位置する神。大地の豊穣を守護する大地母神としての名も高い。月と大地、相反するものを統べる女神は、母を知らぬ青年にとって卒倒するほどの強烈な母性をもって『世界を頼む』と云った。

 思えば上手い具合に『のせられて』しまっただけのことなのかもしれない。不謹慎だが、女神に対して熱い想いを抱いたことも事実であった。青年は彼女のもの悲しげで憂いに満ちた顔を、見たくなかったのだ。

 だが今はもちろん、そんな邪まな想いだけで旅を続けているわけではない。

 今は亡き父の意志を継ぐ若者と世間の目は見るであろうが、実際の所そんなに大したことではなかった。何事にも変えられない仲間を得て、見るもの聞くもの全てが新しいこの地を旅している。たったそれだけのことだが、そう思うだけでも月光神に感謝せずにはいられない。

 今夜は風も暖かい。運良く雨にも降られなかったしこのまま何事もなく夜を明かせれば助かる。もうすぐ交代しようかという頃合いであるが、次の見張り当番である幼なじみのやすらかな寝顔を見ていると、もうしばらくは自分が起きていようという気になった。

 いざという時に動きにくくなるからと、抱きついて寝るといったエミルの申し出をかろうじて断り、ヒロは火の番をしながらひとりもの想いに耽っている。この少女についても彼自身は、まったく身に覚えのないことだった。意識を失って倒れていた少女を拾ったところまではいい、だがそこからが問題だ。

『わたしはヒロに逢う為にここにきたの』

 抱きついた少女が言った言葉は、当人もその他の二人にも容易には理解しがたかった。だがその意味が充分衝撃的であったことは、変えようもない事実である。

 あの『光の柱』とエミルの関連は結局わからなかった。タエコが半分顔を引きつらせながら問いただしても、少女自身が知らないと言うのだから後は知りようがない。

 正確にはただ知らないのではなく、名前とヒロに逢うことが目的だったこと以外は覚えていないと言ったのだが……。だからホノカは衝撃で記憶が曖昧になっているのだろうと結論付けていた。

 けれど、青年はなんとなく気がついていた。エミルは自分のことをあまりしゃべりたくなくて、覚えていないフリをしている。ごく明るくふるまっているが、見上げられたときに目が合った瞳には、偽りようのない哀しみが揺らいでいた。

「なんにせよ、今は無事に朝になってくれることを祈るだけか……」

 苦笑を浮かべながら、彼の隣でやすらかに寝息をたてるエミルの前髪を撫でた。その少女の存在は、これから先一波瀾も二波瀾も巻き起こしてくれそうだった。




センチメンタルファンタジー
第九話 「虜囚」




 朝靄白く煙る頃、早朝番となったタエコは朝食の準備をするため水を汲みに近くの湧水地に来ていた。辺りはやんわりとした朝日に照らし出され、森も起き始めている。聖王樹の月半ばとはいえ、高地の空気は刺すように冷たい。水も同じであった。

 わずかに白くなる息を指先にあてて暖を取る。その厳しい自然は少女にブルーフォレアの森を思い起こさせていた。故郷より遥か南方に位置するこの場所で、まさかそんなことを思うとは……と、タエコは小さく微笑む。

 野営の準備は抜かりなく行ってきた。ヒロは亡き父と故郷の森で数日間に渡って獲物を探すような狩りを何度も経験していて、準備の勝手も良くわかっていた。タエコもホノカも程度こそ違うが同じお嬢さま育ち、野外で寝るという事自体初めての経験だった。

 その事も踏まえて、青年は過剰とも思えるほどの仕度を整えていた。そのおかげか、同行者が一人増えたところでなにも問題がなかったのである。馬達にとっては少々重たい荷物になっていたが。

 涌き水は清廉でくもり一つない純粋さを持っていた。霊峰ジルヴァニアに降り積もった雪がゆっくりと溶け、大地に染み込んで地下水となる。洗練されたその透明さは、聖なる霊山より染み出した水なればこそのものであった。口にするとキンと脳髄にくるほど冷たいのに、ほどよく癖のない甘みが広がる。

「さて、早い所準備しちゃわないとね」

 その冷水で軽く顔を洗うと、タエコはもって来ていた鍋に水を汲んだ。そして立ちあがる。その背後になに者かの気配を感じた。

 ヒロでもホノカでもない異様な空気。振り向く事もできず、身体は硬直し動かない。


 野盗まがいの者が出ると言う話を覚えていた迷わずタエコは大声をあげた……、いやあげるつもりだったのだが。

「!?」

 その声が出ない。気がつけば、辺りの音がなにも聞こえなかった。風の音も、せせらぎの音も、鳥や小動物達の鳴き声もなにもしない。少女は持っていた鍋を取り落とした。金属の鍋がはねる音も、こぼれる水の音もない。

「『範囲消音』と『沈黙』をかけた。誰かを呼ぼうとおもっても無駄」

 意図して低くしているのか、その声は中性的なイメージを与えた。声変わりのしていない少年のような、それでいてどこか感情に欠ける冷めた声。だが、その声は当の少女に届く前に見えない壁に阻まれ消える。

 治癒師であるがため、魔法に対する感覚はさほど鋭くはない彼女だったが、それでもここまで接近を許し且つ二つもの魔法をかけられている。相手は相当の使い手だ。

 冷や汗がびっしりと額に浮かんでいた。すぐ近くと言う事もあって護身用の武器一つ持ってこなかった自分に落胆しながらも、少女は必死にどうすればいいか考えをめぐらせている。

「君は大事な人質だからね。暴れないで、こちらも手荒な真似はしたくない」

 一歩、また一歩とその声の主が距離を狭める。その声が聞こえなくとも、誰かが近寄ってくる気配はわかった。だが、一体なにが起きているのか把握しきれてはいない。

 タエコ自身は、青年や騎士の少女と違ってこういったときの対処法をしらなかった。身を守るための格闘術というものなど、いままで必要がなかったからだ。戦いを生業とする二人と、治癒師である彼女の違いであった。

――だから、タエコの取り得る選択はただ一つ。逃げることあるのみ。

 先ほどからの金縛りのようなものは、魔法をかけられたわけではなく相手に対する恐怖心のようなものなのであろう。気を強く持てば、なんとか動けるような気もする。

「『縛鎖』」

 するとタエコの考えを読んだかのように、ポツリと背後から呪文がかけられた。同時に強力な魔力が働き、少女の体を締め上げる。苦痛の叫び声をあげようにも、その声は自然の摂理をねじ曲げられ一向に響かない。

「逃げようとしても無駄だよ。ほら、もう身体も動かないだろう?」

 その回りくどい言いまわしの台詞は楽しんでいるようでさえある。だが、どこか棒読みで感情の起伏が感じられない。

 とはいえ、今度こそ完全に動きが封じられたことも事実であった。うっすらと浮かんだ涙を拭うための指先一つ動かすこともかなわない。苦しさのまじったうめき声さえももらす事ができない、恐るべき魔の力であった。

「『浮遊』」

 次から次へと、詠唱の一つもなしに発動する魔法。自由にならない彼女の体は重力の束縛を離れてふわりと大地から離れた。

「はじめまして、辺境の治癒師タエコ・ラモーレ。僕はユウ、魔将軍ユウ・イルバガッド……」

 くるりと空中で体が回転し、相手の姿を初めて見る。赤い瞳の魔将軍は、相手にその声が届かないとわかっているのにもかかわらず、出来の悪い人形のような無表情さで自らの名を名乗った――。



 ホノカが目覚めた時、タエコの姿はなかった。最初の不寝番だった彼女は、交代後も寝ごごちの悪さと刺すような寒さで浅い眠りを繰り返していた。明け方にヒロとタエコが交代したときも、ぼんやりとながら覚えている。

 辺りにはクリーム色のもやがかかっていて、寒さをいっそう強めていた。消え入りそうに燻る焚き火に、昨晩集めた小枝を放り込み太めの枝でかき混ぜる。朝露の湿り気を吸った枝ははじめ煙を上げていたが、炎の勢いが強まるとそれも気にならなくなった。

 冷え切っていた体と頭が、徐々に覚醒していく。焚き火をはさんで向こう側には仲良く寄り添って寝るヒロとエミルの姿。明け方にごそごそと起き出した少女が、暖をもとめて青年の毛布にもぐりこんだのであろう。年齢が離れているように感じたせいか、潔癖な彼女でも不快に思う事なく微笑ましい寝顔だと感じるほどであった。

「タエコ、どこにいったのかな……?」

 ふと、その場にいない少女について考えてみる。働き者の彼女のことだから、朝食の準備をほったらかしてどこかに行ってしまうということは考え難い。水を汲みに行ったか、用を足しに行ったか、それくらいしか思い浮かばないのだが……。

 周りには木々が密集していて、あまり遠くまでは見とおせない。街道よりも少し森に入った場所であるため、姿を隠せるような場所は数多い。それが人であっても、獣であっても同じことだ。

 おかしい。なにかが引っかかる。そうこうしているうちにひょっこり戻ってくれば問題はないのだが、一向にその気配はない。不安に駆られたホノカが、天馬に聞いてみようと考えていたところ、青年が目を覚ました。

 むっくりと上体を起こし、ゴキゴキと首を鳴らす。変な体勢だったのが悪かったのか、首がやけに痛い。あくびをかみ殺しながら顔を上げると、ホノカと目が合った。

「あ、おはよう。早いね……ってどうした、そんな険しい顔してさ」

 いつもならば笑顔で交わすはずの挨拶が、今日に限って少女からはでなかった。見ればいつになく深刻な面持ちである。

 ふと、ヒロはその時ようやく自分の状況に気がついた。エミルと寝具を一緒にしていたのである。確か、見張り交代で寝入った時は別々だったはずなのだが、今は彼によりそう形で少女が寝ていた。身に覚えのない事とは言え、騎士の少女が軽蔑の眼差しを投げかけるのには充分なことだ。

「わっっ!」

 自分が一番驚いて、大げさとも思えるほどに飛び跳ねる。隣で寝る少女は痩せていて起伏には乏しい体つきだが、彼が思うには兄妹という間柄には収まらない。13〜4歳ほどの娘といえど、もう充分に女性を感じさせていた。

「い、いやこれは違うんだ!」

 なんとか言い訳をしようと口を開いた青年だが、混乱しへどもどとしか答えられない。冷や汗が浮かんだが、ホノカは相変わらずの表情だ。ただでさえ昨晩の少女の爆弾発言で、どこか白い目で見られていたのだからヒロにとってそれは最悪の事態である。

「そうじゃなくて、……タエコがいないの」

 彼女は静かにそう言った。ヒロのうろたえる様子は特に気にもしていない様子だ。この貴族の少女はときどき鋭いのか鈍いのかわからない言動をとる。ともかく、自分を責める目つきではないことがわかった青年は、ほっと胸をなでおろしたのだが。

「え、タエコがいないって?」

 今度は別の意味でぎょっとする。ホノカの瞳はこの上なく真剣で、容易に楽観的な言葉をかけることが出来なかった。青年に合わせるように立ちあがった少女はこっくりと一つ頷き、続けて言う。

「私が起きた時にはもういなくて……、それからもう随分と経ってるのに返って来る気配がないの。だから探しにいこうかと考えていたのだけど」

 心配そうな瞳は、わずかに下方におとされていた。

「なにか悪い予感がする……」

 そして付け足すように小さく言う。ドクン、と、青年の胸が不安に大きく跳ねた。

「……わかった、ちょっとその辺を見てくるから、ここで待っていてくれないか」

 早鐘を打ち鳴らすかのように、鼓動は速まっている。ホノカにこれ以上心配をかけさせないよう、自分の胸に浮かんだ予兆めいた悪い考えを押し隠して、にっこりと微笑んだ青年はすぐ枕もとに置いていた剣を掴んだ。

「あ、……わ、わたしも……」
「エミルが起きるまで、ホノカはここで待っていて」

 自分も同行すると言いかけた少女に先回りしてヒロは言った。幸せそうに寝息を立てるエミルを起こしてしまうのは忍びないし、タエコがいなくなった理由がもし野盗かなにかの仕業であれば、ホノカをその危険の矢面には立たせられない。一人で残して行くのも少々不安であったが、単独行動で動き回られるよりはまだ安全だろう。

「じゃ、行ってくる」

 心配そうな表情のホノカの肩を軽く叩き、極めて平静を装った青年はすぐに森に紛れた。駆け出していきたい衝動を必死におさえていたヒロは、後ろを振り返るほどの余裕さえなくしていた。

「……ヒロ、気をつけて……」

 そんなホノカの呟きも、当の青年には届く事はなかった――。


 朝の澄んだ冷たい空気が無性に青年をかきたてていた。どうしてここまで焦りを感じているのか、自分自身にすらわからない。しいていうならば、握り締めた父親の手から体温が失われて行くあの時の気持ちと似ている気がした。

 枯れ枝や下草を乱雑に踏みしめながら、仔細に辺りを見まわし帰らぬ幼なじみを探す。ホノカからどれくらいの時間が経過しているのか具体的に聞いてこなかった事に失念しつつ、青年はその歩みを進めていた。どんな小さな手がかりも見落とすまいと、周囲を緊張した目つきで睨み付けるように歩く。そのぴりぴりとした気配は辺りの小動物を震えあがらせるほどであった。

 ――なぜだろう、これほどまでに不安を感じるのは。

 その答えは既にわかりきっているはずだった。だが、彼自身はそのわかりきっている答えに対して酷く臆病で、気がついてはいけないと無意識に思っている。

 タエコは大切な幼なじみだ。唯一の肉親でありながら、どこで生きているのかもわからず自分の記憶にも何一つかけらのない、ただ血が繋がっているだけの母親とは比べ物にならないほどのかけがえのない存在。そう、血よりも濃い絆を感じる少女だった。

 笑い、泣き、時には喧嘩して一緒に育って来た仲。それだけのこと、たったそれだけのことでしかないのだ。

 だが、このつのる想いはなんだろうか、途方もなく不安に苛まれる胸が痛い。

 背の高い樹木の枝々が陽光をさえぎっているためか、いま青年が歩いている辺りは底冷えするような湿った空気が漂っている。年中このような温度と湿度を保っているのだろうか、足もとの岩にはびっしりと苔が密生していた。長く育った穂先には水適が光る。

 もうすぐ水場だ。昨日のうちに青年が見つけ、そのことを少女に話していた湧水地であった。森のなかに湧き出した清廉な水は、小川とも呼べないほどの小さな流れを作り出して大地を潤している。彼らが越えて来たノースグリーヴ平野の大河も、このような始流が星の数ほどあつまっているのだろうと思うと、不思議と胸が熱くなる。

 すべりやすい苔の大地を慎重に進みながら、青年は小さな池を目前としていた。

 タエコが理由もなくいなくなるはずなどない。ましてや、勝手のわからない危険な森なのだから、ふらふらと辺りを散歩すると言う事も考えられない。

 しかし、昨晩のうちに場所を教えていたこの水場ならばどうだろう。エミルのことがあったため、彼は後で水を汲んでくると言っていた事をすっかり忘れていた。少女が気を利かせてみんなに心配をかけずにいなくなるような理由も、ここに来るためならば頷ける。

 もっとも、いま青年が歩いてきた道を考えてもここまではそれほど距離無く、ホノカが心配するほど時間はかからない。やはり何かあったのではないかと勘ぐってしまう。

「……あれは!?」

 ちょっとした斜面を登り、ひょっこりと顔をだした青年が目にしたのは、朝日を鈍く反射する金属の輝きだった。見覚えのあるそれは、タエコの持っていた鍋である。

 急いでかけよって、ヒロはそれを手にした。間違いない、角が少しへこんでいるのも彼には身に覚えのあることだった。

 辺りには人の気配は無い。それに争った様子も無い。タエコがここに来ただろうという事はわかったが、それ以上のことはまったくもってわからなかった。唯一の手がかりであるこの鍋も、残念なことに語るべき口を持ち合わせてない。

「遅かったね」

 不意に真後ろから声をかけられた。なにもない空間からじわりと現れたような不快な気配に、青年は振り向きざま手にしていた剣を抜き打ちになぎ払った。彼の本能が、そうしろと身体を勝手に動かしていた。

 だがそれを見越していたかのように人影は青年の斬撃をかわした。ぶん、という刃が虚空を斬り裂く音が響き、うまく飛び退った声の主は何事もなかったかのよう華麗に巨石の上に着地する。

「危ないね、君はだれにでもそうやって刃をむけるの? まるで手負いの猛獣だ」

 楽しげな口ぶりなのに、その主の表情には感情というものが欠如していた。赤い髪、赤い瞳、身にまとうのは妖気とも感じられるほどの不尊な空気。女性なのか男性なのかよくわからない中性的な雰囲気の人物だった。

 両肩の肩当てには鈍色に輝く飾りがじゃらじゃらととりつけられているが、隣り合ったものどうしが触れ合っても耳障りな金属音はない。肩あての下からは膝下までをすっぽりと包み込むマントが伸び、微風になびいていた。

 その外套を留めるよう胸の前に交叉してかけられたベルト、その中心に据えられた大きなバックルが青年の目を引いた。それは三角形を二つ逆向きに重ねた六芒星が刻まれた、えもいわれぬ輝きを放つ宝石。魔法に詳しくない青年であれども、それが一目で強力な魔力を有していることが見て取れた。

「だれだっ!」

 ヒロは怒気を隠そうともせず、その奇怪な赤毛の人物に叫び声をあげる。

「まず人にものを聞く時は自分から名乗りなさいと、父上に教わらなかったのかい? 英雄の息子殿とあろう者が、それでは感心しないな」

 無表情さに加えた辛辣なもの言いに、ヒロは不快感をさらに増していた。抜き放った剣の鞘を大地に投げ、黒銀の剣を握りなおす。長いマントを風にあそばせる不可解なその人物は、敵意にぎらつく青年の視線を平然と受け流して口を開いた。

「ま、いいよ。君の名前はもう知っているから。私はユウ、君たちが魔軍と呼んでいる『忌まわしき軍勢』三将軍のうちの一人だよ」

 なんとも軽く言ってのけ、赤い瞳の魔将軍はクスッと笑う。色のない絵画のような不自然その物だった無表情な顔に、屈託のない無邪気とさえいえる笑顔が浮かんだ。

 すらりとした体にぴったりフィットした首まで隠れる服は、どこか高貴さを漂わせていた。貴族然としたその上着は腰の所で一度留められているが、ロングコートのように膝下まで達している。簡素で飾りっけはないが、これもなんらかの力を秘めているのだろう。手には薄い黒皮の手袋をつけており、肌の露出はほとんどない。

「貴様がタエコをさらったのか!?」

 ヒロは緊張を解かず、その剣の切っ先をユウと名乗った人物に向けた。忌まわしき軍勢とは、あの女神の云っていた『南方の脅威』のことなのだろう。考えるよりも先に身体が動いてしまうほどの邪気を顕にしている敵に、気を緩めるつもりはない。

 青年を挑発するようにユウは巨石から降り立った。ふわりと羽根が舞い降りるかのごとく、まるで重力を感じさせない。あきらかに自然の摂理を捻じ曲げている。

「ふふふっ、治癒師の彼女には人質になってもらうことにした」

 音もなく大地に両足をつけたユウがぱちんと指を鳴らすと、そのすぐ隣に意識を失ったタエコが現れた。見えない力で縛り上げられているのか表情は苦しげだ。

「ほら彼女の身柄はしっかりと預かっているよ、心配しなくても大丈夫」

 感情の起伏に乏しい表情で、ユウはその囚われ人の頬を撫でた。黒手袋の指がタエコの輪郭をなぞってゆく。意識のない少女はされるがままだ。

 瞬間、ヒロは怒りに頭の中が真っ白になるのを感じた。雄叫びを上げ、ユウに向かって駆け出す自分を抑えられない。故郷の森で仇敵である化け物を前にしたときと同じ、どす黒い狂気に満ちた感情が彼の心を染め上げていた。

 風よりも疾く、彼の剣が唸りをあげて振り下ろされる。

「『停滞』」

 だが、刃はその赤い瞳の魔将軍を切り裂く寸前で魔の力に阻まれた。

 ユウは血気にはやる青年の様子を、まるで汚い物でもみるかのような蔑んだ瞳で見つめていた。たったの一言でその動きのすべてを停止させられてしまったヒロは、せめての抵抗で憤怒に燃えるその視線を投げかけていた。

「興ざめだな。今の勢いは、私だけではなく君の大切な人までも傷つけてしまいそうだったよ。もっと冷静な判断をしなければ、君に世界を託した銀髪の者に申し訳が立たないのではないかな?」

――いったいどこまで知っているのか……ッ!? 

 驚愕にカッと見開かれる彼の瞳を、まっすぐに見つめ返しながらユウはもう一度ぱちんと指を鳴らした。すると、隣のタエコの姿が瞬時に消えうせた。

「霊峰の祭壇で待っているよ。彼女を返して欲しければ、そこまで来る事だね」

 悔しくて声も出ない。目前に囚われた幼なじみの姿があったというのに、自分はなんて無力なのであろうか。ぴくりとも動かない全身に失望を顕にしつつも、怒気のこもった視線はユウを捕らえて離さない。

「そうそう、この前の趣向はどうだったかい? 楽しかったろう?」

 その憎悪にも似た視線を好ましく思ったのか、ユウは一言付け加えていた。

 一体なんの事であろうかと、ヒロは怪訝な表情になる。その青年の心当たりがまったくない、というような様子がさぞおかしかったのだろう、ユウはユウ自身を支配する者の真似をしてくっくと喉を振るわせて笑った。

「もう随分と時間がたったから忘れてしまったのかな? 運命とは思ったほど偶然の折り重なりではないんだ。一握りの力持つものが、大挙する群集の運命を握るように」

 ユウはマントを翻して宙に浮いた。魔力を発動させるための言葉も、風に吹かれる音もなく。

「天馬騎士との廻り合わせも、君の父親の死も逃れられぬ運命だったと感じていただろう? 滑稽だな、たやすく操る事のできる人生に翻弄されるとは。だがそこが面白い、激流にもてあそばれるような生き方と言うものは見ていて飽きがこないよ」

 青年の瞳が再び驚愕に見開かれる。まさか、この者の言っている事は……。

「さて、残してきたお仲間は大丈夫かな、彼女の力では『あいつ』は手に余るよね」

 彼の目の前に現れた時と同じよう、否、ことさら感情を感じさせない無表情さでユウは言った。魔法の力で今や青年の身長よりも三倍以上の高さまで昇った魔将軍は、すーっと空気に溶けるようにそのまま消えた。

――待っているよ、王子さま。ふふふ……

 動きを取り戻した青年は、とてつもない悔しさに崩壊しそうになる自我をすんでのところで押しとどめ、力なく振り下ろした剣をまた握り直してその身を翻した。

 魔の力という、彼の能力の及ばない所で身体の自由を奪われていたとはいえ、捕らえられたタエコをみすみす逃がしてしまったのだ。ホノカならば仕方がないと慰めてくれるかもしれないが、それで彼の敗北感が消えるわけではないし、手も出せず助けられなかった言い訳にはならない。

 奥歯を強く噛み締め苦渋に満ちた表情で鞘を拾うと、青年は野営地にむかって駆け出した。魔将軍が最後に言っていた『あいつ』が、彼の思っているとおりの『あいつ』ならば、ホノカとエミルの身が危ない。

「タエコ、かならず助けに行くからな……」

 人知れずヒロは呟いていた。それがたとえユウの思惑通りのことだとしても、そう誓わずにはいられなかった。



 漠然とした不安を感じて、なにかに襲われるのではないかと不吉な予感に緊張を走らせていたホノカは、天馬からの警告の声を聞くまでもなく戦闘体勢に入っていた。鎧をしっかりと身にまとう時間はなかったが、突然現れた招かれざる異形の影に対峙するためのある程度心の準備は出来ていた。

「エミル、危ないから下がっていて」

 先ほど無理やり起こした少女は眠たそうに目をこすっていたが、目の前に現れた化け物を見て、今は恐怖に表情を凍りつかせている。

「……怖いよ」

 もちろんホノカ自身も恐怖を感じていないわけではない。危険のともなう旅路になることは重々承知していたことだが、敵は国境の関所で聞いていたタチの悪い野盗などではなく、辺境にあらわれたあの魔物だった。

「大丈夫、すぐにヒロとタエコが来てくれるから」

 ホノカはまるで自分に言い聞かせるかのように、ゆっくりとそう言った。既に抜き放たれた細身の刃は、葉と葉のあいだからわずかにさしこむ朝日に冷たく光る。

 状況はあの森での戦いとほとんど同じであった。庇うべき者がいて、自分にはたった一本の細身の剣しかなくて、絶望的なほど敵は強力で――。

 畏れをなす少女二人に、優越感でも感じているのか化け物はゆったりとした足取りでその距離を縮めていた。向けられる細い剣一本ではなんの脅威にもならないと本能で感じているのか、その足取りにはまるで用心や躊躇いがない。

――ふしゅるるるるるる……

 喘息を患う老人の呼吸音にも似た、独特の呼吸を繰り返しながら人とも獣ともつかぬ異界の化け物は二人の前に立ちはだかる。小柄な少女たちを見下ろし、嗜虐心を高めたのか凶悪な爪を生やした両手を見せつけるように高く掲げた。

「あの時と同じようにはいかないよ」

 しがみつくエミルをそっと引き離して下がらせると、キッと眉に力をこめホノカは化け物を睨み付けた。見上げる少女の不敵な言葉の意味を理解したかどうかはわからないが、次の瞬間化け物はとてつもない速さで動いた。

 キィンという鋼鉄の悲鳴を森に響かせ、ホノカも素早い一撃を切り返す。円を描いて放たれるその剣の軌跡は優雅で華麗だった。力では到底かなわないということは痛いほど身にしみてわかっている、ならば手数で勝負するのみ。ホノカは間髪いれず、一撃二撃と重ねて繰り出した。剣の切っ先に確実な手応えが伝わる。

 こちらの力量を甘く見すぎていた愚かな魔物は、容赦なく振るわれた剣に情けないほどたやすく切り刻まれた。浅く切り裂かれた胸の漆黒の肌から、緑色の体液が飛沫する。

――ガアアアァァァァァァッッッッ!!

 傷の痛みからか、はたまた怒りからか、化け物は地鳴りを彷彿とさせる咆哮をあげた。ビリビリと木々の葉を振動させるほどである。もちろんそのままやられているわけではない魔の使いは、極限までにしならせた右腕を手向かう少女に振り下ろした。

 唸りを上げて繰り出された爪をすんでのところでかわしたのだが、息つく間もなく猛攻にでた魔物にホノカは防戦一方となっていた。縦に振るわれた右爪を剣で受けながし、後退しながら横に薙ぎ払った左爪をかわし、鮮やかなステップを踏みながらその激しい攻撃を避けてゆく。その一撃はどれも重たく、一瞬たりとも気を抜けない。

「相変わらず、でたらめな強さね」

 かろうじて皮肉めいた言葉が出ている。まだホノカには余裕があった。

 巧みに剣を操り、その全ての攻撃を受け流す。鎧を身にまとっていないため一撃が致命傷になるだろうことは、日の目を見るより明らかだ。爪だけではなく蹴りにも注意しなければならないとなると、とにかく転機が来るまでじっと耐えなければいけない。敵と違って、少女には自己再生という便利な体質が備わっていないのだ。

 実の所、この強靭な肉体をもった魔物でもたやすく撃ち倒すであろう力を秘めた武器を、ホノカは家の武器庫から持ち出して来ていた。だが、その秘密兵器も今は天馬の所に置いてある。木々が密生しているせいで馬達をここまで連れて来られなかったため、野営に必要そうではない荷物はそこに置いてきたのだ。なによりもそれが悔やまれた。

――エルヴァリオの焦土よ 紅き焔生みし熱流の大河よ 封水晶の森よ

 ふと彼女の背後から、唄うような旋律をもった言葉が紡がれていた。同時に、ぞわりとした違和感がホノカの背筋を駆けぬける。前進の毛が総毛立つかのようなこの感覚は、魔法が発動される前触れである。

 まさか、そんな……。

 呆けてしまいそうになる自分を必死に叱咤し、眼前の敵と斬り結ぶ。一瞬の気の緩みも今は許されない状況なのだ。どんなに気になっていようとも、後ろを振りかえるなどと言う事はできやしない。キィンという鋼を打ち鳴らす音だけが、ホノカを現実に繋ぎ留めてくれていた。

――秘めたる浄解の力とともに 弓弾き踊れ火竜王ディグダリア

 この場には、ホノカの他には記憶を失っているという少女しかいない。ホノカ自身の声ではないのだから、その声の主は考えるまでもない。

 凛然とした声音は、間違いなくエミルのものだ。だが、記憶を失っているはずの少女が魔法を唱えている姿などにわかには信じられなかった。

 と、ホノカは殺気を感じて大きく上体を逸らした。眼前を紙一重の差で凶悪な爪が通りすぎる。いけない、戦いに集中しなくてはと、彼女は浮かんで来る疑問をかなぐり捨てた。ホノカは鼻の皮一枚をうっすらと傷つけられたことにも気づかず、細身の剣を握り直して敵をキッと睨み付ける。

――蒼空の天盤と炎界の射手 灼熱の峰を越えてきたれザヴェンディの英霊よ

 次の瞬間、ごぅっという音と共に大地から吹き上げた灼熱の魔手が闇の者の脚を舐めた。まるで生に執着する死界の亡者の手のように、それは魔の存在の動きを絡めて阻む。白熱する光の舌は、それ単体だけでも相当の熱量を持っているようだった。直視出来ないほどの明るさを放っている。

 突如の足元の異変に、凄まじく鈍感な化け物もたまらず叫びをあげた。それを好機と見て、ホノカは動きを止めた魔物に攻撃を加えるべく剣を振り上げる。

「……っっ!!」

 その刹那、彼女の天馬が離れた地から激しく警鐘を打ち鳴らした。そのため、ホノカは無意識のうちに身体を反転させて距離を広げた。脳裏に閃いた天馬の言葉が、彼女の鼓動をどうしようもなく早める。

――こ、これが、これがまだほんの前触れにしか過ぎないというの!?

 彼女はその強烈な光を放つ炎の揺らめきに半ば愕然としながらも、エミルを振りかえった。飛び退いたホノカに合わせるよう、淡い光に包まれた少女はゆらりと片手をあげ、カッと目を見開く。その瞳が血の色よりも紅く煌いていた。

「『武帝灼焔』!」

 発動の声とともに爆発的な魔の力が一点に収束してゆく。圧縮され耐えきれなくなった大気の魔粒子は、閃光とともに一気に炸裂し轟音を上げた。幾本もの紅い鞭が、贄となった闇の存在を打ち据え、絡めとり、動きを封じこめて焼き尽くす。炎の舌が焔の柱となって燃え盛る、極めて範囲を絞った灼熱の嵐は、火竜の吐息にも負けぬ強力さであった。

 じゅうじゅうといういう音をたてながら、闇の眷族が燃えてゆく。ホノカはむせ返るような鼻につく匂いを想像していたが、不思議と悪臭はなかった。これはただの焔ではない、浄化の火柱なのだろう。逃れられぬ炎の縛陣は、さながらがんじがらめに鎖をかけられて火刑にさらされる咎人を思い起こさせた。

 じんわりと額に浮かぶ冷たい汗を拭おうともせず、ホノカは恐怖に震えていた。魔界の炎の生け贄となった闇の存在が、断末魔の咆哮をあげながら黒く炭化していく様子から、一時たりとも目を離す事が出来ない。

「……きみは、いったい何者なんだ?」

 いつの間に駆けつけたのか、エミルのすぐ後ろにヒロの姿があった。緩慢な動作で振り向いたホノカの目にも明らかなほど、彼も呆然自失の体である。

 どこか疲れたような、それでいて焦燥を押し隠した表情で青年はエミルに問い掛けた。信じられぬ光景を目の当たりにし、嫌が応にも鼓動が速まってくる。わななく喉の震えを必死に抑え込んだその言葉は、彼の意志に反してしわがれた声にしかならなかった。

「今はまだ、話したくない……」

 強力な魔力の放出で立っていられなくなった少女は、ぺたんと大地に座りこみ涙に濡れる眼差しを青年に返した。上目遣いに投げかけられる視線はまるで妖精のような清浄さを持ち、青年からそれ以上の追求の言葉を失わさせる。


――浄化の焔が闇の存在全てを灰燼と化すまでに、それほど時間を必要としなかった。


To be Continued


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