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 大陸を吹きぬける、一陣の春風。はるか東の方角には、うっすらと白みがかった霊山ジルティアの姿を見る事ができる地、ノースグリーヴ王国。ジル山岳地帯より流れ出でる清水によって成される大河に潤わされる大地と、西側左腕海の彼方より海原を越えてやってくるあたたかい南風に抱かれる、争いごとなどほとんど起きる事がない平穏な国。

 暦の上では春の中ごろから終りにあたる聖王樹の月ではあるが、実際の所は本格的な春の時節がこの月である。頬をなでる微風もやわらかく、一年のうちで一番過ごしやすい季節であった。もっとも、朝夕はまだまだ冷え込むのではあるが。

 ノースグリーヴ王国の国土は広い。北大陸の北西部に広がる平原全土を掌握し、東は霊山の麓、北はジルヴァニア森林地帯の付近、西は人跡未踏の大渓谷地帯のすぐそばまで広がっている。とはいえ、これだけ広大な領土を持っているとなると国境近辺の統治というのは非常に難しい。

 基本的にはその村・集落単位での自治が行われているが、中規模程度になると中央からの官吏が派遣される事になる。小さい村とは言えども、警備兵となる戦士の一人や二人は必ず常駐しているのだが、彼らはあくまでも兵士であり『長』にはならない。

 北王国の領地内では、比較的街道の整備が整っている。街の数もその広さに比例して多く、国内の移動は頻繁に行われていた。潅木のまばらに茂る平原地と、川岸に突然現れる林立地帯。平原もそうであるが、緑にはことかかない国であった。

 余談ではあるが、そういった街道が整備されているおかげか、運輸業を生業とするもの達もいる。隊商とまでいかなくても、数名単位の若者達が運び屋家業を行っているのだ。そのような国内運輸のシステムが確立しているのも、この国くらいなものであろう。

 大地を潤す大河エラネストの支流、川幅数歩といったごく小さい規模の河川のほとりに、三人の若者と三頭の馬の姿があった。男性が一人、女性が二人、……いや、青年と少女といったほうがよいかも知れないほど彼等は若かった。青年達もまたこの国では特に珍しくもない、運び屋のパーティなのだろうか?

 純白の鬣に漆黒の瞳を持った立派な体躯の馬に少女が寄り添って、その首筋をそっと撫でていた。のこりの二頭は栗毛で、白馬よりも少々小柄だ。こちらは恐らく連れである青年と、もう一人の少女の乗用馬なのだろう。

 ふと、純白の馬はぶるると鼻を鳴らし、大きく首を振る。ばっと、なにか白い大きなものが広がった。

――翼、白銀の翼である。

 雄雄しく広げられた翼をいとおしげに撫でながら、なにごとか青年と話す少女。時おりその翼を開閉させて、『天馬』は優しげに少女を見守りつづけていた。




センチメンタルファンタジー
第七話 「陽光」



「そろそろ出発しましょうか、ヒロ、タエコ」

 銀製の鎧にマント姿の少女は、休憩時間の終りを告げるように口を開いた。腰のあたりに下げられた細身の剣の鍔は、そのそっけないほどの鞘に似合わぬほど精巧な装飾が施されている。目の肥えた者でなくとも、それが業物である事はすぐに予測ができた。

「ん、ああ、わかった」

 馬達を休ませるために外していた鞍を手にし、青年は答える。こちらは、革の割合の多い軽鎧に、革の長靴と動きやすさ重視の装備である。故郷を出る時にもってきていたホリゾンタリスの外套も、もう昼には必要無いため、今は荷物と一緒に括り付けてあった。
 少女と同じく腰には細めの刀身を持った長剣が下げられていた。わずかに反りのある鞘に収められた独特な鍔と握りを持った剣だ。さほど身長の高くない青年にとっては、少々扱いにくいのではないのかとも思えるほどの長さである。

「次の街まで、あとどれくらいでつくかわかるかい?」

 青年は少女に対して問いかけを返した。すると、その少女――ホノカはにっこりと微笑んで、

「夕方になる前くらいにはつけると思いますよ、ヒロ」

 そう答えた。ホノカの答えに同意するように、その相棒である天馬も鼻を鳴らす。太陽はまだ中天にさしかかったほど、沈むまでにはまだ随分と時間がある。

「まだ、しばらくは乗りつづけなきゃ行けないのね……はぁ……」

 数歩はなれたところではタエコがため息を漏らしていた。どうやら彼女は乗馬が苦手らしい。これから夕刻まで揺られっぱなしということを考えると、憂鬱にもなる。

「ダメだぞ、タエコ。いつまでも、もたもたしてるわけにはいかないんだからさ」

 ヒロはそんな様子のタエコを見ながら、少々厳しいとも取れる言葉を口にした。
 確かに、辺境の村ではこんな立派な体躯の乗用馬はいなかった。耕作を手伝うための馬はいたが、それはあきらかに乗用のものではなく足腰が太くて強い北産種のものだった。寒さの厳しい辺境地での生活に耐えうるような毛足の長い馬である。事実、ヒロでさえその背に乗ろうとした事はない。
 とはいえ馬に乗るという行為自体は、今回の旅で必要不可欠であるから、ホノカに二頭準備してもらい、ここ三日ほどゆっくりと時間をかけて来たのだが……。

「でも、まだ慣れないんだもの、しょうがないじゃない……」

 性別の違いゆえか、はたまた天性の感覚の鋭さか、ヒロはすんなりと馬を乗りこなす事ができていた。もちろん初めは何度か振り落とされもしたが、たったの三日で見事にマスターし、今はかなりの速度で駆けさせても平気なほどである。対してタエコはと言うと、いつ落ちるかとおっかなびっくり乗っているくらいだから、その上達の度合いはたかが知れている。進行速度は、遅い方に合わせなければならない。

「大丈夫、きっとすぐに慣れますから。そんなに怖がらないで、もっと親しく接すればいいだけですよ」

 大地に下ろしていた荷物を愛馬に括り付けながら、ホノカはそうアドバイスをしていた。鞍当ての布を天馬の背にかけて、その上から革製の鞍を置く。その間、天馬はおとなしく少女にされるがままになっていた。

「急に乗りこなせっていうのも無理な話だから、無茶だけはするなって言っとくけど……せめてこの国を出る頃には、今よりも早く駆けられるようにしてくれよ」

 なにも少女を困らせようとしてこんな事を言っているわけではない。いまのペースでは国を抜けるまでに一月はかかってしまうほどの速度なのだ。確かに北王国の国土は広いが、街道として整備された路を駆けているのだし青年に言わせればもう少しスピードをあげたかった。
 速く駆けられないというのは、なにも旅全体だけのことではない。たとえば野生の獣などに襲われた時、これではろくに逃げる事もできないだろう。

 もちろん馬達の体力のことも考えなければならないが、モンド家において長距離移動を念頭において育成されており、これまでの旅路で特につかれた様子は感じさせなかった。とかく今は歩くよりはわずかに速いといったスピードである、馬達も少々じれったく感じているだろう。

「――わ、わかってるわよぉ」

 すこしだけ口を尖らせて、眉を寄せた少女は小さく呟いた。タエコ自身も、今の自分が旅の足を引っ張っている事にはとうに気がついている。

「ところで――」

 ヒロは、タエコに向けていた視線をもう一人の少女ホノカに戻した。天馬の純白の鬣に負けず劣らず美しい髪が、青年の瞳に映る。細く柔らかそうな赤みがかった長髪は、緩やかにながれる風にわずかになびいていた。

「――はい?」

 荷を天馬に括り付け終わり、二人の準備を待つばかりとなったホノカは、にっこりと微笑みながらその青年の言葉に振りかえる。

「どうかしましたか?」

 ヒロは困ったような顔でぽりぽりと頭を掻くと、ちらっとタエコに目配せをした。タエコの方も同じような表情をしている。

「あのさ、ホノカ。その……言葉遣いなんだけど……」

 とても言いにくそうに彼は口を開いていた。鞍に片手をかけ、まっすぐに少女を見つめる。

「俺達には気なんか使わなくていいんだよ。現にホノカのほうから『よそよそしいのは無し』って約束したじゃないか」

 そんな青年の言葉に対して、ホノカの顔には疑問符が浮かんでいた。

「よそよそしい……ですか?」

 これでも少女は努めて平常を保ってきていたつもりだった。青年達の態度も、それまでの身分差のあるものではなく、親密になっていたからほっとしていた所であったのに。

「もっとくだけて話してくれてもいいんだけどな」

 ヒロの顔にすまさなそうな表情が浮かぶ。伝えるか、伝えぬべきか相当悩んだのだろう。ホノカにもそれは理解できた。

「会ってからたった数日しかたっていない俺達だし、いきなり『くだけて』ってのが無理な話なのかもしれない。……けど、これからずっと一緒に旅を続けることになるんだから、そんなに丁寧に話さなくてもいいんだよ」

 タエコがすっとホノカのそばに歩み寄る。困惑したような顔でホノカは青年ともう一人の少女を交互に見つめていた。

「あ、あの……」

 いまにも泣き出してしまいそうな顔である。なぜだろう、どうして二人がこんな張り詰めた表情をしているのか彼女にはわからなかった。

 自分が悪かったのか? それでは具体的にどういう所が? 直すにはどうすれば良いのか? そもそも、よそよそしい態度をとっていたのだろうか、自分は?

 ホノカが口を開く前に、すぐ目の前にせまったタエコが少女をやさしく抱きしめていた。――やさしくやわらかな抱擁。

「ごめんね、私たちはもっとホノカのことを知りたい……いや、知らなくちゃいけないの、これから一緒に旅をするために」

 彼女の胸当てのプレート部に額を押し付けるようにして抱きつくタエコ。

「でも……」

 青年たちの言葉の意味をようやく理解した彼女は、胸にすがりつく少女の肩に手をまわす事も出来ず、とても悲しげな表情で口を開いた。

「――私はこのように話す事しか知らないのです。小さい頃からそう教えられてきたので……」

 タエコがはっと息を飲んだ。少女の心の痛みをひしひしと感じていた。青年は相変わらずのまっすぐな瞳でホノカを見つづけている。天馬フォルテはその長い睫を悲しげに落としながらも、主である少女を勇気付けるように視線を送りつづけていた。

 沈黙が辺りを包んだ――。


 ――三日ほど前のこと。三人は旅立ちの朝を迎えていた。

 ヒロは肩や首のあたりをさすりながら、旅の荷物を手にし厩舎まで来ていた。昨日の乗馬の練習で散々馬から振り落とされたせいか、身体の節々が痛みを訴えている。夕べのうちに、タエコに治癒魔法のひとつも唱えてもらえばよかったと小さな後悔をしながら、彼に与えられた馬に歩み寄った。
 タエコはまだ来ていないようだ。彼のほうが約束の時より少々早めに来たらしい。

 春とはいえども、まだまだ朝晩の冷たい空気は身にしみる。早朝という時間帯であることもあってか、辺りに彼以外の人影はない。辺境の刺すような冷たい空気に慣れ親しんでいるヒロにとって、この程度の寒さはあまり問題ではなかったが、馬たちの吐き出す吐息はわずかに白い。

「昨日は散々振り落としてくれたよな」

 鼻面をかるくなでながら、青年はこれから相棒になる栗毛の馬に話し掛けていた。天馬にはさすがに劣るが、長旅にも十分に耐えうるであろう逞しい体つきの牝馬である。瞬発力には劣るが、長距離・長時間の走駆には雌のほうが向いていると言われているのだ。
 この厩舎には馬車を引くための馬なども合わせて10頭ほど繋がれていた。他にもモンド家で保有している厩は何ヶ所かあるのだが、屋敷に一番近い事からここには丈夫で強い馬が集められている。

「勝手がわかんないもんだからおまえにはずいぶんと暴れられたけど、今日からは上手く乗るからさ」

 眠たそうな瞳で青年を見る。随分と横柄な態度の馬であったが、無頓着で鈍い青年はそんなこと気にも留めない。

「ま、仲良くやろうぜ、相棒」

 青年の独り言に反応するかのように、ブルルと小さく鼻を鳴らした。彼女はもともと気性の荒いほうであまり人にはなつかないのだが、こころなしか青年には打ち解けつつあるような気配をみせていた。
 もっとも、その事に気がついているのはフォルテくらいなものであろう。ヒロやタエコは当たり前にして、ホノカさえも気づいていまい。

「あ、ヒロさん。お早いのですね」

 と、厩舎にホノカが顔をだした。すぐ外の草地では朝靄がわずかに下草をぬらし、きらきらと陽光を照り返して輝いている。朝日を背にした少女は、神秘的な美しさとさわやかな笑顔をもって彼に語りかけていた。

「ホノカ様、おはようございます」

 丁寧な口調で朝の挨拶をする。約束の時間よりもまで早いずであるが、律儀な少女はすっかり出発の準備の出来た様子で現れていた。

「昨晩はよく眠れましたか?」

 にこやかに微笑みながら、青年のそばまで歩み寄る。彼女の愛馬である天馬は厩舎に繋がれるということはない。普通の生物よりも霊的に高度な存在である幻獣は束縛を嫌うため、敷地内の草地を自由に歩きまわっているのだ。精神で繋がっている少女からの呼びかけがあれば、どこにいてもすぐにかけつけることができるのだから、枷など必要がなかった。

「ええ、とても……といいたいところですが、あまり上質すぎて俺には向かないみたいです。現にこうして早く目がさめてしまったわけで」

 苦笑を浮かべながら青年は答えていた。王侯貴族の生活とはいかなるものか肌で感じてみると、故郷の自分のベッドのほうがしっくりとなじむ。あれだけ広い部屋にひとりだけという感覚も、彼には少々理解しがたかった。

「そうですか……。でもなんとなくわかりますよ、ヒロさんの家のベッドは森の良い香りがしていましたから」

 すこしだけ残念そうな顔になったが、すぐにそれも戻り笑顔でホノカは返した。昨々晩彼女も辺境の地で一夜を過ごしたのだが、その時は故リファスの部屋で休んでいた。村唯一の宿であるタエコの生家は緑葉の祭典で盛り上がる広場に面しているため深夜まで騒がしく、そのうえ酔いつぶれた村人達の対応にてんやわんやであったため、急遽ヒロの家に宿泊することになったのだった。

 タエコはなぜか面白くなさそうな顔をしていたが、旅の仕度を終えると親を手伝って酔っ払いの対応に駆り出されていた。少女に言わせれば『一つ屋根の下、年頃の男女が……』ということで気が気ではなかったのだが、旅立つ前の最後の親孝行をしなくてはとその場は割り切る事にした。もちろん、ヒロの事を信じているからこその決断だったが。

「……どちらにせよ、これからの旅路では常にあたたかい寝床を確保できるとは限りません。ホノカ様には厳しい旅になるかもしれないです」

 真剣なまなざしでヒロは言った。王命とは言え、同年齢の少女二人と旅をするとなるとその安全は自分がなんとしてでも守らねばならない。その堅い誓いは決して悟られないように心の奥底に刻まれている。

「わかっています。それくらいの覚悟が無ければ、今回の旅には同行できません」

 ホノカは気負うことも臆することも無く、平静にそれを受けとめていた。パッと見では可愛らしさだけが目を引いてしまう少女であるが、気丈で芯は強い。水の流れのように自然体でありながら、その瞳には揺るぎない意志の焔が踊る。『血筋』と一言で片付ける事の出来ないなにかが、そこにはあった。

「もう来てたの、早いね」

 二人に遅れて、もう一人の少女が厩舎にたどり着いていた。人影を遠目で見つけ、ろくに確認もしないうちに声をかけたタエコは、それが厩番などではなくて青年たちだったことに、ほっと胸をなでおろしながら二人のもとに歩んだ。

「ホノカ様、おはようございます」
「おはようございます、タエコさん」

 やんわりと微笑みながら、旅支度の終えた二人の少女は朝の挨拶を交わし合った。辺境出のタエコであるが、こうして見るとなかなかさまになっている。深い青色の法衣は、大地の豊穣をつかさどる月光の神フリーイッドに仕える者の神官衣であり、手にした長い杖は老司祭から預けられたものだ。

「あの、二人ともちょうどよい機会なので聞いてください」

 タエコがすぐそばまで来た事を確認し、ゆっくりとホノカは口を開いた。ヒロとタエコは少女の決意に満ちた表情に、いったい何事かと顔を見合わせる。

 ホノカは一瞬躊躇したようにうつむくが、しかしこれだけは伝えておかなければと気持ちを振り絞ってわずかに顔を上げた。少々上目遣い気味の視線で二人を見ながら、恥ずかしそうに口を開いた。

「その……、私の事を呼ぶときには名前だけで呼んでください。これからの旅は、私の望んだ旅でもあります。王命とは言え、ついて行くとなった以上、私もヒロさんタエコさんと対等な立場で居たい……。だからその……よそよそしいのは無しにしたいのです」

 誠意に満ちた言葉であった。偽善でも詭弁でもなく、心の底からの少女の想いであった。青年達にもそれはひしひしと伝わってくる。

「この国を出ると決めたときから、もうモンド家の……王家の者としての名は一切捨てる覚悟でいました。そう……、国王陛下が私に旅の同行を命じなかったとしても、きっとついていったことでしょう。だから――」

 少女の胸には今、夕暮れの空に浮かぶ血の色をした星のヴィジョンが揺らめいていた。国王はおろか敬愛する父にさえ――いや、父だからこそと言おうか――、その存在を伝えていない。禍つ運命の象徴であり全ての災厄の訪れを告げるもの――南天の凶星。

「――だから、これから私の事は『ホノカ』とだけ呼んでほしいんです」

 少女の純粋な想いは十分に伝えられた。青年は一度タエコに目配せし、少女から同意の色を含んだ頷きが返って来るのを確認した上で、その口を開いた。

「わかりました、ホノカ様。ですが、ひとつだけこちらの条件も飲んでください。それを約束していただけるのならば、ホノカ様の事を名前だけで呼ぶようにします」

 今度は逆にホノカの方が疑問顔になる。

「……約束、ですか?」

 ヒロはその質問に対してこっくりと頷いて答えた。タエコは静かにそのなりゆきを見守っている。

「はい。ホノカ様も同じように俺たちの事は名前で呼んでください。一緒に旅をするものとしてもっと気楽に構えてほしいんです。……あの日、ブルーフォレアの森から俺の家に戻っていたときのように」

 そう、それはずっと青年の胸につっかえていた事だった。互いの素性がわかってしまい、その後からなぜかぎこちない空気が流れている。共に戦ったという事だけが事実としてあったあのとき、たとえほんの一時の事だったとしても、ヒロにとってはそれがなにかとても大切なもののように感じていた。

 同意するように、タエコも頷く。

「――約束してくれますか?」

 青年は穏やかな微笑みを浮かべながら、少女に問うた。

「はい、それではこれからは、ヒロ、タエコと呼ぶ事にします」

 嬉しそうな顔でホノカは答える。一目見ただけで心が軽くなるような、春の日差しにも似た優しい表情だ。

「――よろしくお願いします、ヒロ。そしてタエコも」

 すっとホノカが右手を出す。ヒロとタエコがその手に自らの手を重ねる。

「こちらこそよろしく、ホノカ」
「よろしくおねが……、ううん、よろしくね、ホノカ」

 少女の望んだこと。それは、普通の少女でありたいと言う事。

 高貴な血筋に生まれたゆえに常について回っていた「身分」という枷。どこにいても目立ちすぎる可憐さと、真摯で誠実な人を魅了してやまないその瞳は、悲しいかな雲の上の存在という観念を人に植え付けてもいた。同じ歳頃の給仕の娘とでさえも、言葉を交わすのは挨拶くらいなものだった。

 対等な立場といえば天馬騎士団の女性騎士達がいるのだが、基本的に戦のないこの国では戦闘演習も少なく、彼女達が召集される事もほとんどない。その召集をかけるのも王の命を持ってのみのことであり、騎士団が集うことは定例の連絡会議くらいなものだ。文字通り彼女達は最後の切り札である。

――私はヒロとタエコに会えて、本当によかったと思う……。

 それゆえ、この辺境の二人には心から感謝していた。これからの長きに渡る旅路は、きっと困難なものになる――、それは周知の事実だ。
 だが、この二人とならばその旅も決して辛いだけのものではなくなるだろう。旅の中で自分自身も変わる事がきっとできるだろう。

「さぁ、行きましょうか」

 ホノカはにっこりと二人に笑いかけ、いともあっさりと旅立ちを告げた――。



「それは違うと思うな」

 青年は唐突に口を開いた。すっかり黙してしまったホノカに、一歩、また一歩と近づきながら青年は軽く首を左右に振る。

「なにが違うと言うのでしょうか?」

 ホノカは困惑しきった顔で、青年に尋ね返した。その心に渦巻く思いは怒りや嫌悪といったそんな陳腐なものではなく、純粋に途惑いであった。  天馬はその様子を心配そうに目を瞬かせながら見つめている。

「だれに教えられてなくとも、ホノカは自由に話す事ができるんだ。俺にはそれがわかる。……ホノカ自身はまだ壁があるって事に気がついていないだけじゃないのか」

 その言葉は少々厳しいとも取れた。だからホノカが口を開く前にもう一人の少女の方がそれには反発心を覚えた。青年に向かい反論を訴える。

「ちょっとヒロ! そんな言い方はないでしょう!」
「違うよ、タエコ。俺はそういう意味で言ったんじゃない」

 だがヒロはタエコの怒気をさらりと受けとめ、間髪いれずそれを返した。不思議な平静さが彼の心の中にあった。まだなにか言いたそうな幼なじみを手で制すると、再びホノカにさし向かう。

「ホノカは気兼ねなく話せる友達がいつもすぐそばにいた。これからもそれは変わらないだろう。……だから、その他の者に対しては無意識のうちに距離を置いているんじゃないか?」

 ホノカの瞳が大きく見開かれた。青年の真剣な瞳に射すくめられたように言葉をなくして立ち尽くす。ヒロは言葉を続けた。

「確かに比べる事なんてできないと思う、俺達と――フォルテとでは」

 ビクッと少女の体が震えた。瞳は大きく見開かれたまま、ゆっくりと愛馬を振りかえる。天馬は先ほどから変わらぬ眼差しで少女を後押しするように見つめていた。

「ホノカにとってフォルテは『親友』なんだろう? だから、逢ってまだ数日の俺達がかなわないのはわかっているよ。けど……、いや、だからこそ無理をしてでもホノカにはもっと気兼ねなく話してほしいんだ」

 青年の言葉、幼なじみの少女でさえもなにも言えず黙りこくってしまった。微風が青年の長めの前髪をさらさらと揺らす。ゆっくりとヒロは天を仰いだ。

「――俺達はもう『仲間』なんだからさ」

 同じようにホノカも空を見上げてみた。雲一つない晴天、その蒼さが痛いほど目に染みた。ゆっくりと瞳を閉じると、瞼ごしにもその陽光のあたたかさを感じる事ができる。

「…………」

 はらり、と、少女の瞳から涙がこぼれた。一度堰を切った涙は止めど無く溢れ、少女の頬をぬらしていく。熱い雫であった。

「ホ、ホノカ……」

 タエコはその姿をみて、おろおろとうろたえていた。だが青年は、ふっと柔らかい笑顔をホノカに返す。彼の想いは伝わったのだ。

「だ、大丈夫?」

 結局の所どう対処していいのかわからず、タエコはぎゅっと少女の手を握り締め短く尋ねていた。

「ううん、大丈夫……。私、嬉しいんです……」

 ぽろぽろと止まらぬ涙を拭おうともせず、ホノカは微笑んでいた。

「いままでそんなこと言ってくれる人なんていなかったから……。私、ずっと気がつかなかった」

 きらきらと光を照り返す涙の雫は、とても美しく青年の目に映った。高貴なる血筋の少女だからこそ普通の人には理解できない悩みがあり、それを悩みと認識しないよう無意識のうちにしまいこんでいたのだろう。

「ありがとう、ヒロ。ありがとう、タエコ……。あなた達と出会えて本当に良かった」

 その事実を目の当たりにしたとき、意外にもホノカはすんなりと受けとめていた。表層下の想いゆえか、自分でも驚くほど素直に納得してしまっていた。

「ゆっくりでいい、少しずつでいい。だからホノカも俺達の事は仲間だと思って」

 大きく頷きながらヒロはホノカを勇気付けるよう一言伝えた。

 身分という檻に閉じ込められていた少女。その檻が『城』ひとつの大きさだとしても、『国』という広大さを持っていたとしても、少女を縛り付けるものという見方ではなにも変わらない。檻の広さなど問題ではないのだ、外の世界の大きさに比べれば。

 一歩足を踏み出したばかりの世界は、とてつもない奥深さを見せていた。天馬で蒼空をいくら駆け続けても、きっと手に入れられないものがここにあった。そして、その広さはまだまだとどまる事を知らない。もっとたくさんの思いがあり、もっとさまざまな考え方があり、ホノカの胸はなぜか晴れやかだった。

 ゆっくりと人差し指の背で涙を拭う。と、タエコが生来の世話やき心を出してハンカチでその涙拭を手伝った。タエコの瞳もわずかに潤んでいた。不意に目が合って、くすっと笑いあった。

「そろそろ出発しようぜ、こいつらも待ってるみたいだし」

 ヒロは握りこぶしに親指だけを立てて背中側の2頭の馬を指す。憮然とした表情で、それぞれの栗毛の馬は出発を待つ瞳をしていた。フォルテも同意するように翼を広げてブルルと鼻を鳴らした。こっくりとホノカが頷く。

「――はい」

 まだ涙の跡の残る笑顔で少女は応えた。とても晴れやかな気分であった――。

To be Continude.


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